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ブリュッセルのミュージシャンの手作りオープンサンド

ある晩の豆カレー。もちろんダンの手作り。
ある晩の豆カレー。もちろんダンの手作り。

 ダンが起きたあとの雑談で、私は外国語の難しさについて話した。私は幼少期にブリュッセルに住んでいたことがあり、現地の小学校に通っていたので、当時はフランス語で意思疎通できていた。しかし今ではすっかり忘れ、多少は読むことはできても、話すことはほぼできない。英語圏への留学経験もないので、一般的な英語力で、生活には支障はないものの、やっぱり不都合を感じる。

「特に、あなたといると悔しくてたまらない」

 私が言うと、ダンはびっくりした顔で、なんで、と聞いた。

「あなたの面白いジョークがときどきわからないから。それに、わかっても笑うことしかできなくて、うまく切り返せないから。日本だったら私はたくさん人を笑わせるんだよ!」

 後半はちょっと大げさだったかもしれないが、私は、ダンのブリティッシュジョーク、それも一層秀逸なはずのジョークほど、わかりきれずに逃してしまうのを、つくづく悲しいと思っていた。当意即妙な切り返しができたら、きっともっと楽しくなるのに、と。するとダンは頷いて言った。

「僕も同じ問題を抱えているよ」

 彼はブリュセルに暮らしてもう長く、フランス語はもちろんペラペラだ。だが、それでもユーモアの部分で、伝わりきらないと感じることもしばしばあるのだという。
 それでも一度か二度は、私はダンを笑わせることはできた。彼はポーカーフェイスで会話を進めるタイプなのに、私の言ったことに思わず噴き出した瞬間があった。とはいえ、そのとき私は笑わせようと狙っていったわけではなかったので、ジョークが成功したわけではない。
 ダンに会って、昼寝したり音楽を聴いたり、手作りの料理を食べたりする数日を過ごすと、私は元気になる。語学力のなさを嘆くようになると、すっかり復活してきた証拠だ。そして私は再びドイツへと戻り、たまにいかめしい気持ちになりながら、調査を続行するのだった。このときも、翌朝の電車で私はダンの家を去り、ドイツの片田舎の調査地へ直行した。お別れの直前に、ピクニックで使ったナイフを、「ちょうだい」とねだった。「ちょうどなくて」と、適当に理由を言った。本心では、ダンのナイフをお守りにしたかったのだった。ダンは快く、そのナイフとりんご、それからサンドイッチを渡してくれた。「なんだか、きみの親になったような気がするんだけど」とダンは言った。

 これまでにダンは一体何皿私のために料理をしてくれたのだろう。すべての食事を記録しておくべきだった。もしかしたら、二十皿くらいにはなるのかもしれない。必ず恩返しするつもりだが、それには彼が来日してくれなくてはならないので、きっとまだ先になってしまうだろう。けれども、死ぬまでには、間違いなく彼には大ごちそうをしなければ。

 ミスター・ダイアゴナル&ザ・ブラック・ライト・オーケストラは、残念ながら現在は活動休止中だが、メンバーたちは形を変えつつ音楽活動を続けている。ダンはミスター・ダイアゴナル名義ではなく、いまは主に本名のDan Barbenelで楽曲を発表している。彼の音楽には、そのときの人生観が表れている。新曲を聴かせてもらうたびに、私は「最近はこんな気持ちなのかな」と想像するものの、それをうまく、ユーモアを交えて表現できないから、直接尋ねたりはせずに、心の中で何度も味わい、話す代わりに横で昼寝したりして、ダンと数日過ごす。

 考えてみれば、言葉で一部を切り取ることなく、そうやってただ一緒に過ごせることが、本当はいちばん幸せなのかもしれないと思う。

濱野ちひろさんの「一期一宴」は不定期連載。次回は、8月上旬ころ配信予定です。お楽しみに。

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濱野ちひろ

1977年、広島県生まれ。
2000年、早稲田大学第一文学部卒業後、雑誌などに寄稿を始める。インタビュー記事やエッセイ、映画評、旅行、アートなどに関する記事を執筆。
2018年、京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程修了。現在、同研究科博士課程に在籍し、文化人類学におけるセクシュアリティ研究に取り組む。
2019年、『聖なるズー』で第17回開高健ノンフィクション賞を受賞。
その他最新情報は公式HP

写真:小田駿一

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