よみタイ

出汁の香りと白菜の煮物がむっつりイギリス女性を笑顔に変える

 助手席に座り、自己紹介から始めた。サリーも自分のことを話してくれる。チンフォードというロンドン郊外の小さな町に向かって車は走っていた。彼女はその町で生まれ育ったのだそうだ。夫のケナンと出会ったのもチンフォードでのことだ。ケナンは一回り以上年下だという。10歳になる息子のサミュエルは、「困るぐらい」頭がいい。
 運転しつつ、彼女は私に「結婚や出産はしないの?」と尋ねた。私は「本当に子どもが欲しいと数年前までは思っていたんだけど、諦めました。なんだか縁がないような気がします。もうすぐ37歳だし」。するとサリーは前を向いたまま頭を大きく右に左にと振り、「ナンセンスだわ」「おかしい」「何を言っているのかしら」「そんなはずがないじゃないの」といった意味の言葉をいくつも続けた。「私がサミュエルを妊娠したのは41歳の時だったわよ」。なんだか怒っているようでもあった。
 彼女がこの話題に腹を立てたのか、もともとつっけんどんなのか計りかねた。しかしそんなことより注目すべき点は、彼女と私の感情のズレだった。私は世間話のようなつもりで、深く考えもせず発言していた。しかし彼女の反応は世間話の規模から外れていて、私は、生き方について「この意気地なし!」と批判されたような気さえしていた。

 この会話をしたのは2015年1月のことである。サリーが妊娠したのがその11年前だとして、2004年の時点で彼女は41歳で妊娠し、待望の一子を得ていた。日本でも40代での初産は年々増加傾向にあるから、いまでは身の回りで40歳過ぎて初産だったと聞くことも多い。しかし2010年代の前半から半ばごろまでの時点では、日本では「40代で妊娠出産」というテーマで女性誌に特集が組まれることも珍しくはなかった。私自身もその趣旨の取材を何度かしたことがあり、不妊治療で苦しむ人をはじめ、もしも我が子が障害を持って生まれたらどうしようと妊娠中にノイローゼのようになってしまった人、「もう若くないから」体力と気力がついていかないのではと育児に関する不安に苛まれている人など、様々な女性に会っていた。あるいは、40歳を過ぎて出産し、苦労もあるけれど楽しくて仕方がない、という女性の話を明るい写真とともに掲載し、読者を希望に導くページを見かけることもあった。

 サリーはといえば、決して体力に溢れているわけではなさそうだった。10年前は多少違っていたのかもしれないが、腕や腹部を見れば筋肉よりも脂肪が多いし、脚がむくんでいるのもわかる。百点満点の健康を謳歌している様子ではない。私は少々考え込んでしまった。日本では現在、35歳という数字を強調し、それ以後の出産を「高齢出産」と呼んでいる。イギリスではそんな言説はないと言う。「高齢」という特徴づけは、強烈なインパクトを女性にも男性にも与える。妊娠や出産にまつわる様々なリスクの増加が主張されるから、不安ばかりが醸成される。これはつまり「早く妊娠して出産しなさい(結婚もしなさい)、30代前半までには子どもをひとりは設けているのが“普通”です」と、不安を煽りながら洗脳をしているわけだ。人々がそのメッセージを受け入れ、染まりきってしまった時点で、それは暗黙のルールと化し、人間ひとりひとりの生き方に大きく干渉することになる。だからこそ、日本に生きている女性たちの多くは、30代のどこかで一度、人生観の修正や崩壊や再生などに立ち向かうことになっている。みんな一斉に強迫観念に曝されているからだ。そして不安というものは、ウイルスよりも早く伝染する。しかし本来は、サリーの言うとおり「誰が誰と何歳で子どもを産もうが、その人の自由でしょうよ」ということでしかない。加えて、子どもを産むまいが、それもまったく自由だ。

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新刊紹介

濱野ちひろ

1977年、広島県生まれ。
2000年、早稲田大学第一文学部卒業後、雑誌などに寄稿を始める。インタビュー記事やエッセイ、映画評、旅行、アートなどに関する記事を執筆。
2018年、京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程修了。現在、同研究科博士課程に在籍し、文化人類学におけるセクシュアリティ研究に取り組む。
2019年、『聖なるズー』で第17回開高健ノンフィクション賞を受賞。
その他最新情報は公式HP

写真:小田駿一

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