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出汁の香りと白菜の煮物がむっつりイギリス女性を笑顔に変える

 夫婦の日常を観察したかったが、この滞在では一家とべったり過ごすことはできなかった。観劇や観光、人と会う予定などを詰め込み過ぎたのだ。それでも一度だけ、サリーが作っていた食事の残りをいただいたことがあった。ためらわず書けば、まったく美味しくなかった。料理が大嫌いだと申告するだけある。改めて、空港から家に向かう車内でのリクエストと態度を思い出す。彼女の味付けを知ったあとでは、料理に挫けるあまり高圧的にならざるを得なかったのではないだろうかと解釈できた。そしてむしろあれは懇願だったのかもしれないとも思った。私はなんとしても一度は和食を作らねばと決意し、スーパーで食材を買い込み、キッチンに向かった。この家にいるのもあと数日、という晩だった。

 和食は料理の最中から香りが立つ。特に出汁の香りは他国の人々にとっては鮮烈らしい。サリーはキッチンにやってきて、「何を作っているの? 不思議ないい匂いがするわ!」と言った。興奮しているようだ。

 ごはん、お味噌汁、白菜の煮物、すき焼きを作った。どれも日本で作るようにはうまくはいかなかったが、食卓に並べると大ご馳走に見えた。ケナンは仕事だったので、サリーと息子のサミュエルと三人で食卓を囲んだ。サリーは驚くほど勢いよく次々に食べた。「おいしいわ! 素敵よ! いつも思うけど、和食ってすごいわよね。本当にたくさんの野菜を使うのよね。そこが特に素晴らしいと思うの。和食は世界でもっとも健康的な料理だわ。それに、いろんな味がするし、品数も多いでしょう! すごい、本当にすごいわ。こんなごはんを毎日食べるから、日本人は長生きなのよね」。まくし立てるという表現がぴったりだった。サリーは初めて心底の笑顔を見せていた。そして、私の料理を絶賛した。それほどうまく作れたわけではなかったのだが、おべんちゃらではないのだと、ひしひしと伝わってきた。いったい私は二週間、何をしていたのだろう。仏頂面のサリーが、料理ひとつでこんなにも笑顔になってくれるとは。サリーから感情を引き出すには、料理が一番だったのだ。

 サミュエルは「こんなスープは初めて飲んだよ! とても美味しい」と味噌汁を気に入っていた。いっぽう、すき焼きについては「面白い味、甘くてしょっぱくて。最初その組みあわせとギャップが美味しいと思ったけど、全部は食べられない」と言っていた。口に合わない理由も冷静かつ的確に表現するので、嫌な気分にならない。サリーはおかわりもしていた。特に白菜の煮物が好きで、「この野菜はなんて名前なの? どこで買ったの?」と聞く。チンフォード駅の大きいスーパーに”Chinese cabbage”と書かれて並べられていたと伝える。すると彼女は真面目に頷き、「今度買ってみるわ、作ってみる」と言っていた。本気のようだが、実際のところ彼女は買わないだろうし、作らないだろう。

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濱野ちひろ

1977年、広島県生まれ。
2000年、早稲田大学第一文学部卒業後、雑誌などに寄稿を始める。インタビュー記事やエッセイ、映画評、旅行、アートなどに関する記事を執筆。
2018年、京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程修了。現在、同研究科博士課程に在籍し、文化人類学におけるセクシュアリティ研究に取り組む。
2019年、『聖なるズー』で第17回開高健ノンフィクション賞を受賞。
その他最新情報は公式HP

写真:小田駿一

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