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濱野ちひろ「一期一宴」

ライオンの夢、カラハリの風

 そして日が暮れ、ふたたびバーベキューだ。アーチーはご機嫌に今日も肉を焼く。昨晩に続き今晩も、日本では食べることのできない珍しいなにかの肉が供されているのだが、毎度、空腹が過ぎるために一体何の肉か覚える余裕がなかった。とにかくうまかった。塩味が効いていて、汗をたくさんかいた身体が癒やされる。満腹してもなお食べられそうなくらい、うまかった。
 
 ところで草原にはトイレは基本的にないので、そのあたりの茂みなどで用を足す。この頃には私はもちろん、キヨミちゃんさえ草原でのおしっこに慣れていて、むしろ「気持ちいいね!」と解放感をたたえるようになっていた。それくらいリラックスできていたし、ビールをがぶがぶ飲んでウィスキーにも手を出していたから、みんな機嫌良く眠りについた。

 星空のもとのテントでぐっすり眠っていた深夜。突然の緊張が走った。ライオンの声が轟いたからである。全員の眼が覚めた。危険を察知して誰も声を出さなかったが、それぞれのテントのなかで皆起きているのが気配でわかった。深い眠りを一瞬にして打ち破る恐ろしさがライオンの声にはあった。その大きさから、ごく近くにいることはわかる。しかし足音は一切しない。隣でキヨミちゃんが息を潜めているのが分かる。振り返って音を立ててはいけないと思い、身じろぎできない。しばらくして、アーチーが「もう大丈夫だ」と言った。「ライオンだ。すぐ近くにいるが、もうここからは去った」。深夜のライオンの声について、私たちは早朝、興奮気味に話し合った。おそらく近くにいるので探してみよう、という結論を出した。車をゆっくり走らせて、草原に眼を凝らす。
 
 すると、いた。よほど運が良くなければ出会えないという、ライオンがいたのだ。それも一頭ではなかった。五〜六頭だっただろうか。風にたてがみを預け、朝日に向かって静かに並ぶ雄たち。その近くで、まだ幼げなライオンたちが取っ組み合いをして遊んでいた。相撲を取っているような姿勢で立ち上がっている瞬間もあった。いまは狩りの緊張はなく、遊び、寛ぐ心地良い時間なのだと、説明されずともわかった。

 いったんキャンプに戻り、再び車を出した。アーチーは、昨晩の声の主を探していた。そのライオンは群れを率いる雄だということだった。アーチーは運転しつつ、車中で音楽をかけて大きな声で歌っていたが、やはり唐突にブレーキをかけては草原に降り、「ふむ」と考える。アーチーがサファリの達人であることは疑いようがない。彼はその五感で動物たちの居所を突き止める。それを私はもう何度も目にしたから、アーチーならばライオンを見つけられるのではないか、と思った。
 
 そしてアーチーは、本当に、そのライオンを見つけた。「あれだ」。王者というにふさわしい、堂々たるライオンが木の下に凜として佇んでいた。幼いライオンたちとは、顔がまるで違った。闘いのあとなのだろうか、鼻のあたりに傷のように見えるものがあった。私たちはほとんど言葉を発しないまま、ライオンを見た。車中からとはいえ、金色にも見える瞳を向けられると、言いようのない緊張が走った。

 そのとき、アーチーがゆっくりと運転席のドアを開けた。車を降り、ドアを慎重に閉めた後、そろりそろりとライオンに近づいていった。言葉ではない、音のような声をアーチーは発していた。ライオンはアーチーに視線を向け、首を動かしたが、身体を起こすことはなかった。たった数分のことだったはずだが、私は全身がこわばった。

 私はライオンの夢を、それから一度も見ていない。

 旅はときに人生を変える。カラハリでの数日間は、確かにそのような旅だった。どのように変わったのか、はっきりとは説明できない。だが、アーチーの車のルーフでひとり草原の風に吹かれたあの感覚を、私は言葉にしきれないまま、ずっと大切にするだろう。確かにあのときに、身体ごと、私は変わったと確信している。

堂々として動じず、木陰から金色の瞳でただ私たちを見る雄ライオン。私は彼に憧れる。
堂々として動じず、木陰から金色の瞳でただ私たちを見る雄ライオン。私は彼に憧れる。

濱野ちひろさんの「一期一宴」は隔週連載。次回は、1/29(金)配信予定です。お楽しみに。

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濱野ちひろ

1977年、広島県生まれ。
2000年、早稲田大学第一文学部卒業後、雑誌などに寄稿を始める。インタビュー記事やエッセイ、映画評、旅行、アートなどに関する記事を執筆。
2018年、京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程修了。現在、同研究科博士課程に在籍し、文化人類学におけるセクシュアリティ研究に取り組む。
2019年、『聖なるズー』で第17回開高健ノンフィクション賞を受賞。
その他最新情報は公式HP

写真:小田駿一

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