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濱野ちひろ「一期一宴」

ライオンの夢、カラハリの風

水を飲むキリンたちの群れ。ただのんびりしているだけなのに、なぜ彼らはこんなに美しいのだろう。そしてなぜ私たちは動物たちをいつまでも飽きずに見ていられるのだろう。
水を飲むキリンたちの群れ。ただのんびりしているだけなのに、なぜ彼らはこんなに美しいのだろう。そしてなぜ私たちは動物たちをいつまでも飽きずに見ていられるのだろう。

 朝が来て、アーチーがふたたび車を走らせる。ときおり、彼は車を止める。はじめは何が起きているのかわからなかったのだが、アーチーは道端に動物の痕跡を発見すると、近づいて検分するのだ。足跡や糞の状態を、ときに触って確かめ、「何時間ほど前にここを象が通ったはずだ」といった情報を伝えてくれる。私たちは彼が車を降りているとき、なるべく静かにしていることを求められる。というのは、アーチーは遠くの動物たちの音や気配、風の方向や匂い、すべてを感じ取って判断しているからだ。その真剣な様子を、私たちは車中で座って見ているだけなのに、緊張してくる。

 しばらくは平和なドライブが続いた。キヨミちゃんと雑談が弾む。彼女は結婚しようと思っていると言った。だけどちょっと迷っている。結婚しても仕事は絶対に続けたい。わざわざここでしなくてもいいような種類の会話をしているのが、変な感じで面白かった。突然、アーチーが「あそこだ! 見ろ!」と大きな声で言った。キリンが群れをなしていた。前脚を開いて首を垂らし、水を飲んでいるものもいた。キヨミちゃんも私も、興奮と感動に飛び込んだ。雑談のなかに見え隠れした日常を、キリンたちが粉々にやっつけてくれた。

 そこからだ。奇跡が嘘のように連続して起きた。猛然と走るバッファロー、腹を空かせているらしい少し痩せたヒョウ、スプリングボックの群れ。野生動物たちは、私たちなどいないかのように走り、跳ね、水を飲み、生きていた。そしてまた、私たちが放り込まれている広大な草原の光景にこそ、私は打たれた。遠くから来た風は、私たちを通り越して遙か先へと吹いていく。空も草原もどこまでも続き、その端を知ろうとしても叶わない。

 アーチーは、いいことを思いついたぞと、車を降りるように言った。そして私をひょいと持ち上げ、ルーフに座らせた。「ここから景色を見るといい」。そういってアーチーは運転席に戻り、エンジンをかけた。ゆっくりと車が走り出す。地平線が丸かった。空もまたそうだ。果てしない美しさだった。そのとき、泣こうと思ったわけでは決してない。だが、私はわんわん泣いていた。涙が溢れて止まらなかった。このときのことを思い出し、何度も文章にしてみようとこれまでにも思ったが、私の力量では不可能だ。私の心身が受け止めたものは説明できないなにものかで、感情でさえきっとなく、言葉の外にしかないもの、文章では描きようのないものだった。それを受け止めたという身体の応答としての、涙と嗚咽だったのだと思う。しばらく泣いて、しゃくりあげた。アーチーはそんな私に驚きもせず、ただ微笑んで、抱きしめてくれた。彼は私に起きたことを完全に理解していたと思う。

車のルーフの上から周囲を見渡す。世界はこんなにも広く、私はこんなにも小さいという当たり前のことが、とてつもなく気持ちいい。
車のルーフの上から周囲を見渡す。世界はこんなにも広く、私はこんなにも小さいという当たり前のことが、とてつもなく気持ちいい。
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濱野ちひろ

1977年、広島県生まれ。
2000年、早稲田大学第一文学部卒業後、雑誌などに寄稿を始める。インタビュー記事やエッセイ、映画評、旅行、アートなどに関する記事を執筆。
2018年、京都大学大学院人間・環境学研究科修士課程修了。現在、同研究科博士課程に在籍し、文化人類学におけるセクシュアリティ研究に取り組む。
2019年、『聖なるズー』で第17回開高健ノンフィクション賞を受賞。
その他最新情報は公式HP

写真:小田駿一

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