2021.1.15
ライオンの夢、カラハリの風
朝が来て、アーチーがふたたび車を走らせる。ときおり、彼は車を止める。はじめは何が起きているのかわからなかったのだが、アーチーは道端に動物の痕跡を発見すると、近づいて検分するのだ。足跡や糞の状態を、ときに触って確かめ、「何時間ほど前にここを象が通ったはずだ」といった情報を伝えてくれる。私たちは彼が車を降りているとき、なるべく静かにしていることを求められる。というのは、アーチーは遠くの動物たちの音や気配、風の方向や匂い、すべてを感じ取って判断しているからだ。その真剣な様子を、私たちは車中で座って見ているだけなのに、緊張してくる。
しばらくは平和なドライブが続いた。キヨミちゃんと雑談が弾む。彼女は結婚しようと思っていると言った。だけどちょっと迷っている。結婚しても仕事は絶対に続けたい。わざわざここでしなくてもいいような種類の会話をしているのが、変な感じで面白かった。突然、アーチーが「あそこだ! 見ろ!」と大きな声で言った。キリンが群れをなしていた。前脚を開いて首を垂らし、水を飲んでいるものもいた。キヨミちゃんも私も、興奮と感動に飛び込んだ。雑談のなかに見え隠れした日常を、キリンたちが粉々にやっつけてくれた。
そこからだ。奇跡が嘘のように連続して起きた。猛然と走るバッファロー、腹を空かせているらしい少し痩せたヒョウ、スプリングボックの群れ。野生動物たちは、私たちなどいないかのように走り、跳ね、水を飲み、生きていた。そしてまた、私たちが放り込まれている広大な草原の光景にこそ、私は打たれた。遠くから来た風は、私たちを通り越して遙か先へと吹いていく。空も草原もどこまでも続き、その端を知ろうとしても叶わない。
アーチーは、いいことを思いついたぞと、車を降りるように言った。そして私をひょいと持ち上げ、ルーフに座らせた。「ここから景色を見るといい」。そういってアーチーは運転席に戻り、エンジンをかけた。ゆっくりと車が走り出す。地平線が丸かった。空もまたそうだ。果てしない美しさだった。そのとき、泣こうと思ったわけでは決してない。だが、私はわんわん泣いていた。涙が溢れて止まらなかった。このときのことを思い出し、何度も文章にしてみようとこれまでにも思ったが、私の力量では不可能だ。私の心身が受け止めたものは説明できないなにものかで、感情でさえきっとなく、言葉の外にしかないもの、文章では描きようのないものだった。それを受け止めたという身体の応答としての、涙と嗚咽だったのだと思う。しばらく泣いて、しゃくりあげた。アーチーはそんな私に驚きもせず、ただ微笑んで、抱きしめてくれた。彼は私に起きたことを完全に理解していたと思う。