2021.5.8
「間違いなく男がいる」深夜帰宅した妻の嘘を見抜きながらも問い詰めなかった夫の心理(第8話 夫:康介)
「……梨花よ。家についたって連絡しただけ」
妙に落ち着き払った声でそう言った妻は、しかし口元に嘲笑を浮かべていた。
――男だ。
そう、直感で悟った。
康介もバカじゃない。コケにされ、見えすいた嘘に騙されるほど寛容でも鈍感でもない。しかし激昂し、頭に血が上っているにもかかわらず、咄嗟の判断でそれ以上の追及をやめた自分がいた。
力ずくでスマホを取り上げ、確認したっていい。夫である自分にはその権利がある。けれども妻の嘘を確信すればするほど、真実を暴くのが躊躇われるのだった。
結局、康介はそれ以上何も言わなかった。
リビングの真ん中で、無言で立ち尽くす夫を一瞥し、麻美は何食わぬ顔でシャワールームへと消えた。
既婚男を狙う危険な女……5年越しの告白
「うーん……確かにそれは、限りなくグレーかもしれない」
バーカウンターに肘をつき、赤く火照った頬を両手で抑えながら、小坂瑠璃子は艶かしく眉をしかめた。
「グレーというか、僕の中ではもう完全に黒だ」
ウィスキーを飲み干し、康介も半ば投げやりに答える。
クライアントとあまり近くなりすぎてもよろしくない。そう自分に言い聞かせ、瑠璃子とは距離をとろうとしていた。にもかかわらずまたしても二人で飲みにきてしまったのは、間違いなくまいっているせいだ。
まっすぐ家に帰る気になれず、誰かと飲みたい気分だった。そこにタイミングよく瑠璃子が書籍の発売日を連絡してきて「少しだけ飲みませんか」と誘われたのだ。
そして、お互い2杯目を飲み干そうかというところで「奥さんと仲直りできました?」と尋ねられた。その優しい言い方が胸に染み入り、康介は堪えきれず麻美の浮気疑惑を瑠璃子に愚痴ったのだった。
「女性不信になりそうだよ。まさか麻美に限って……」
康介はほとんどカウンターに突っ伏し、深いため息を吐く。その横で瑠璃子はしばし無言でいたが、低い声でおもむろに口を開いた。
「こんなことを言ったら失礼かもしれないけど……」
いったん躊躇うように言葉を切ってから、瑠璃子はまっすぐ前を見たまま続ける。
「櫻井先生の奥さんは、先生が思っているような女性ではないと思います」
「え?」
康介は一瞬、耳を疑った。驚き目を見開いて、瑠璃子の横顔を凝視する。しかし瑠璃子はこちらを見ようともせず、視線を逸らしたまま、さらに耳を疑うセリフを口にした。
「奥さんじゃなくて、私を選べば良かったのに」
一体、何を言い出すのか。康介は口を開いたまま言葉を失った。
瑠璃子の突拍子のなさは今に始まったことではない。これまでにも返答に困るような自虐ネタや、攻撃的な言い回しで唖然とさせられたこともある。しかしそれにしたってこれは……さすがに聞き流せない。
「小坂さん、何を言って……」笑って誤魔化そうとしたものの、鋭い視線を感じて口をつぐんだ。急にこちらを向いた瑠璃子の瞳は、物欲しげな湿り気を帯びていた。
冗談にはできないと悟り、康介はゴクリと唾を飲んだ。
(文/安本由佳)
※次回(妻:麻美side)は5月22日(土)公開予定です。