2021.10.9
「精子が死んじゃうと困る」不妊治療に没頭する妻の異常行動。その意外な真意と、夫の反応(第19話 妻:麻美)
「精子が死んじゃうと困る」不妊治療にのめり込む妻
「なぁ……俺、仕事があるから……終わったら先に帰ってると思うけど、大丈夫?」
「もちろん大丈夫よ、お仕事がんばってね」
不妊外来の待合室で、麻美は硬い表情の夫にニコリと微笑んだ。
今日はいよいよ採卵日だ。子宮から卵巣に細い針を刺し、卵子を採取するのだ。それに康介の精子を合わせ、人工的に受精卵を作る。採卵の痛みには個人差があるというが、もう麻美の覚悟はできている。
身体の状態を少しでも良くするため、この1ヶ月、麻美は異常なほど健康的な生活を送っていた。食生活はもちろん、0時前には就寝しヨガにも通った。身体の体温を上げると良いと聞いたから、下腹部と背中にカイロを貼り続け、よもぎ蒸しや針治療なども手当たり次第試した。
卵子を増やす排卵促進剤も医師に自ら希望した。無理に必要はないと言われたが、一度に多くの卵子を採れるに越したことはないと思ったからだ。
小さな注射を自ら腹に打ち込むのは気持ちの良いものではなかったが、だからこそ最善を尽くして早く妊娠してしまいたい。そんな一心で、麻美の意識は一直線に「妊娠」に向いていたのだ。
――麻美……あんまり神経質にならないで、その……治療はできるだけリラックスして進めた方が良いんじゃないのか……?
そんな妻に、夫が恐る恐るねぎらいの声をかけることもあったが、触らぬ神に祟りなしと判断したのか、徐々に何も言わなくなった。麻美の作る精力増進系の手料理も大量のサプリメントも黙って飲み込んだし、「熱で精子が死んじゃうと困るから」とぬるめに入れたお風呂の湯にも文句は言わなかった。
妊活の妨げになるという電磁波対策のためにキッチンから消えた電子レンジ、家中に貼られた電磁波カットのシールについても言及はせず、寝室には絶対にスマホを持ち込むなという麻美の指示にも大人しく従った。
「7番の方、4番の診察室へどうぞ」
不妊外来では個人情報保護のためなのか、実名ではなく受付時に渡された番号で呼ばれる。
「じゃあ、私から行ってくるね。こうちゃんもよろしくね。がんばってね」
麻美は席を立ちながら、まだ表情の硬い康介に念を押す。彼はこれからアダルトビデオなんかを見ながら自慰行為をするのだろうが、無駄にデリケートなところがあるから、失敗などされたら困る。
「ああ……麻美も……。じゃあ、またあとで」
一応は二人の子供を作るというのに、妻がこれからどんな処置をされるのか一切聞くこともなく、射精だけ済ませ帰るという夫。
けれど今さら何も気にならなかった。
もう何年もセックスはしていないし、お互いに別の相手もいる。
夫婦で過ごす時間も会話も、表面的で薄っぺらいもの。
真面目に理想の夫婦を追求するほど、己の首を締めることになるのは十分学んだ。
だから、結婚制度の利点だけうまく利用し、あとは好き勝手にする。今はとにかく妊娠し、康介が父親という元で出産するのが麻美の希望を叶える一番スムーズな方法なのだ。良質な精子を提供してくれるならば、むしろ心から感謝すべきかもしれない。
薬品の香りが漂う施術室の診察台に座ると、徐々に背もたれが倒れると同時に足が大きく開かれ、下着も付けていない下半身が真っ白な照明の下に晒されていく。
――赤ちゃん、できますように。私の、赤ちゃん……。
ヒヤリとした器具が性器に触れるのを感じながら、麻美はそっと目を閉じ、ただひたすら願いに思いを馳せた。
(文/山本理沙)
※次回(夫:康介side)は10月23日(土)公開予定です