2021.10.9
「精子が死んじゃうと困る」不妊治療に没頭する妻の異常行動。その意外な真意と、夫の反応(第19話 妻:麻美)
「何もできない」女社長の魂胆
不妊治療を始めてから、麻美の日常はますます忙しくなった。
妊娠すれば悪阻もあるだろうし、体調は予測不能だ。気が早いが、もちろん出産後は仕事どころじゃなくなる可能性も高い。それまでに保育園やベビーシッターなども全て計画しておく必要があった。
幸い、エステサロンは想像以上に上手くいっている。スカウトしたセラピストの由紀だけでなく、インスタグラムで募集したアルバイトの珠里が非常によく働いてくれたのだ。
彼女はまだ25歳で東京の生活に憧れ地方から上京し、もともとは歯科助手をしていたが、昨今流行りの「ラウンジ嬢」で相当な収入を得るようになったそうだ。遅くとも30歳までにまとまった資金を貯め、やはりエステサロンかカフェを開きたいと言う。
麻美のインスタグラムを数年前からフォローしており「上品なセレブ妻生活にずっと憧れていて、大ファンだった」と言うわりに結婚願望はないと言い切った点も気に入った。
野心があるせいか、麻美の指示は何でも聞き、自主的に経営を学ぼうとする姿勢にも好感が持てた。何より綺麗な顔と身体をしているのが良いし、抜け目のない女は利害関係がわかりやすくかえって信用できる。
サロンができあがっていく様子は、すべてインスタグラムに投稿した。
外見的に見栄えする珠里にもアカウントを作らせ、どんな写真をあげるべきか、どうすればファンを作ることができるか、麻美なりの知見をきっちりと教え込んだ。
麻美自身も美容情報は貪欲に漁り、気になる美容法があれば片っ端から講習に申し込む。セラピストの由紀には定期的に施術をしてもらい、その効果は加工なしでインスタグラムに載せた。するとフォロワーやコアなファン、問合せも増え続け、集客には困らない自信もついた。
隠れ家的な小さなサロンにするつもりだったが、セラピストをもう1、2人探してもいいかもしれない。
「麻美さんて本当にすごいですよね。“女社長!”ってガツガツした雰囲気はないのに、サラッと何でもこなして」
「そんなことないわよ。私は何もできないけど、珠里ちゃんと由紀ちゃんが本当に優秀だし、業者さんもみんな親切だからラッキーなだけ」
最近、麻美は「私は何もできない」という言葉をよく使う。すると周りがよく働いてくれることに気づいたのだ。
これから妊娠と出産も控えているのだから、余計な力は使えない。
「じゃあ私はそろそろ先に失礼するけど、珠里ちゃん、時間まであとはよろしく」
乱雑なサロンの雑務を珠里に任せ、麻美はその場を後にする。
これからサロン近くの南青山に新しくオープンするプリスクールの見学に行き、その後は晋也の部屋に寄るつもりだ。
浮気相手とのセックスは避妊必須で楽しみながら夫とは不妊治療をしているなんて、自分も墜ちるとこまで堕ちたものだと笑ってしまう。
けれどモラルや世間の目など気にしていたら、欲しいものを手に入れるのにはあまりに時間がかかるし、人生を全力で楽しむこともできない。人の命は短いし、若く健康で美しくいられる時間はもっと短い。
康介は麻美の提案した「オープンマリッジ」には反対したが、やはり妻の不貞に言及する勇気はないようだし、いずれにせよ、晋也との関係は妊娠するまで。言いなりになる義務はない。
「不良妻になってから、本当に楽になったわ」
麻美は思わず道端でそう呟いてから、タイミングよく通りかかったタクシーに上機嫌に乗り込んだ。