2021.3.27
「暇」に縛られ不自由になる美人妻の苦悩。優雅な生活に満たされないまま、昔の男に再会した夜(第5話 妻:麻美)
仕事も子供もない。「暇」に縛られる不自由な女
数日間、夫婦はほとんど会話もないまま生活していた。
お互いに不満があるのは明らかだったが、“喧嘩”というものをしなくなったのはいつからだろう。いや、そもそも康介とは感情のぶつけ合いをしたことはほとんどない。
そしてあの夜の確執が時間の経過により風化された頃、康介は会社から帰宅すると、妙に弾んだ声で言った。
「次の土曜の夜、一緒に出かけるからな」
「えっ?」
彼は当たり前のようにコートを妻に預ける。
「会社の先輩にホームパーティーに誘われたんだ。奥さんもぜひ一緒にって」
康介はニコリと微笑むと「今日の夕飯は?」と付け加え、ソファに腰掛けテレビをつけた。
「……土曜、私は無理だわ」
カウンターキッチンの中から、麻美は静かに答える。
土曜は夕方から、外資系大手化粧品ブランドの新作発表会がある。大使館で大々的に行われるこのイベントには、麻美のような素人のインフルエンサーだけでなく、有名女優やモデルも多く呼んでいるらしい。
麻美に声をかけてくれた広報担当も気合が入っていた。
「どうして?」
予想通り、乾いた声が返ってきた。麻美はシチューを温めながら、なるべく柔らかい口調でイベントについて説明する。
「だから?」
しかし康介は「だからどうした」とでも言うように、テレビに目を向けたまま語気を強めた。
「もう広報の人と約束してるし、仕事だからキャンセルできないの。ごめんね」
「それって写真撮ってインスタにあげるだけだろ?だったら画像だけ貰えば済むよな?わざわざ行く必要はないだろ」
分かったような口調で言う夫の言葉にカッと血が上ったが、麻美は無言のままダイニングテーブルに夜食を並べる。
「イベント仕切ってる奴も頭悪いな。その方が経費削減できるだろ。業界の奴らって、これだけ不景気が続いても未だに派手なことに無駄金使いたがるんだな。それで、いくら貰えるの?」
麻美が黙り込んでいると、康介はさらに詰めよる。
「……二万円」
本当は、五千円だった。イベント自体の魅力が高いことを主催者側も分かっているから、報酬は相場よりも安い。
けれど、これほどのイベントに少額でも謝礼ありで呼ばれるのは麻美にとって名誉なことだ。コツコツ続けているインスタグラムのフォロワーも三万人近くなり、最近は依頼されるPR案件の質も報酬も少しずつ上がっている。
こうして大きな仕事を多数こなしていけば、PR会社や広報担当、広告代理店などの目につきやすくなり、麻美は晴れて一流インフルエンサーの仲間入りができる。上手くいけば月収入はOL時代を超えるだろう。
「ふっ」
しかし康介は、呆れたように笑った。
「冷静によく考えてくれよ。これだけ自由に暮らして時間もある中で、旦那が仕事上の付き合いで嫁の協力を求めてるのに、小銭稼ぎが大事?」
「……小銭……?」
「そもそも毎日暇だろ?わざわざ週末に予定を入れるのは勘弁してくれ」
康介は麻美の言葉を遮りそう言い切ると、音量を上げてテレビに視線を戻した。彼の中で、会話は終了したのだ。
「……」
麻美は無意識に唇の内側を強く噛み締める。
勤めておらず子供もいない女は、この「暇」という言葉によって、かえって生活を縛られ制限され肩身の狭い思いをする。けれどそんなこと、康介には想像もつかないだろう。とはいえ何も言い返せない自分が悔しくてならない。
鈍い痛みに気づいたときには、生々しい血液の味が口に広がっていた。舌で患部を確かめると、不自然にボコッと膨れている。
「……コンビニ、いってくる」
「え?」
「洗剤、切らしちゃったの。すぐ戻ってくる」
康介がまたしても何か言ったような気がしたが、麻美は素早くコートとスマホを掴み小走りで家を出た。
この男と同じ空間で息をするのは耐えられない。ただ、強くそう思った。
(文/山本理沙)
※次回(夫:康介side)は4月10日(土)公開予定です。