2026.5.3
山形県と新潟県に挟まれた山頂なのに、なぜか福島県。日本百名山・飯豊山の不思議な「県境」【山の名&珍プレイス 第6回】
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「飯豊山神社奥宮」をめぐる福島県と新潟県の争い
しかし、いったいどうしてこんな県境になってしまったのか?
その理由は、まさにその「飯豊山神社奥宮」にある。飯豊山神社奥宮の存在とその立ち位置こそが、不思議な県境を生み出したのだ。
平安時代に開かれたという飯豊山神社は、麓宮が旧一ノ木村(現在の喜多方市山都町)にあり、飯豊本山山頂部に位置する奥宮は旧東蒲原郡(現在の新潟県阿賀町など)。いずれにしても両者は江戸時代、どちらも岩代国の会津藩領内にあった。だが、さらにさかのぼれば、東蒲原郡付近はもともと越後国でもあったから、話は複雑だ。
そんななか、明治時代の行政区画再編により、1886年(明治19年)に東蒲原郡は再び新潟県(つまり以前の越後国)に編入されることになった。その結果、飯豊山神社の麓宮は福島県のままなのに、奥宮は新潟県に位置するという事態になってしまったのだ。



福島県が勝ち取った、飯豊本山山頂を含む“盲腸”
いうまでもなく、山岳信仰の流れを汲む神社にとって、奥宮と麓宮はセットである。飯豊神社奥宮の土地が新潟県に編入されたことによって福島県では抗議運動が起き、20年近い年月とさまざまな紆余曲折を経て、1907年(明治40年)にとうとう奥宮は福島県に復帰することになる。その際に奥宮までの“参道”として、三国岳から飯豊本山へ続く登山道も福島県が所有することになった。これが「盲腸」や「へその緒」と呼ばれる、現在の飯豊山における福島県の範囲なのだ。なお、勢力争いは福島県と新潟県の間に勃発しただけで、山形県はただの傍観者なのであった。
おもしろいのは、福島県の細長い領土は三国岳付近から飯豊山神社奥宮、そしてそもそもの神体である飯豊本山までではなく、もっと西側の御西小屋付近まで続いていること。以前は御西岳付近にも飯豊山神社に関係する祠などがあり、そのために御西小屋付近までは飯豊山奥宮の影響を強く受けているとして、福島県の勢力範囲となったらしい。


この福島県の領土は、三国岳付近から御西小屋付近までだいたい8km弱。幅はもっとも狭い場所で1mに満たず、山頂付近のいちばん広い部分でも400m程度だ。そして、飯豊神社奥宮への参道でもある登山道は、つねにその上に位置している。だから、登山者が三国岳から山頂、さらに御西小屋を目指せば、いつも右は山形県、左には新潟県が見えるのであった……。


殺風景な奥宮の外観と、“撮影禁止”内部の雰囲気から少し考えること
それにしても、先に述べたように飯豊山神社奥宮と飯豊本山山頂部が福島県に復帰するまでにかかった年月は20年だ。“飯豊山神社は我々のものだ”という明治時代の地元の方々の熱意には恐れ入る。それが日本は類を見ない県境を生み出しているのだから、大したものである。ただ、その経緯を知っていると、現在の飯豊本山奥宮のコンクリートの建物は簡素というか殺風景すぎるというか、本来の価値があまり伝わってこないのは事実だ。内部は撮影禁止のためにお見せできないが、なにしろブルーシートの上に賽銭箱があり、祭壇の隣にアルミの脚立が置かれていたりするのである。清潔に管理されているのは救いだが、もっと歴史の重みを感じられるようにいつか再建されることを期待してしまう。
ともあれ、この福島県領土の登山道は歩いていて気持ちよいだけではなく、地元の歴史ある文化も体験できる。山深い山域ではあるが、長い休みが取れたときにでもぜひ足を延ばしてみてもらいたい。

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次回、連載第7回は6/7(日)9:00公開予定です
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