よみタイ

がんの後ろから何が来る?

 だがこの先はどうなるのか、頭を抱えて翌日、老健にいくと……。 

 予想していたような甘い事態ではなかった。
「実は、お母様が同室の入所者に手を上げてしまいまして」
 えっ、と驚くよりも、ああ、やっぱりと血の気が引いた。
 当初、なかなか施設に馴染んでくれなくて介護士さんたちの手を焼かせた母だが、あるときからすんなりはまってくれた。
「すっかり仕切ってますよ」と精神科医の施設長さんが豪快に笑っていたのは、昨年の二月頃だったか……。
 
 馴染んだのはいいが、二人部屋を自分のテリトリーと見なしてしまったらしい。
「こちらも気をつかってうまくやっていけそうな方を選んで同室にしていたのですが」
 その同室者が退所して一人で占有する期間がしばらくあったため、次の入居者が入って来たときから、自分のテリトリーを守るための攻撃が始まってしまった。絶えず同室の人を監視し、出て行けと言い、ついに暴力が出た。
 確かに面会に行っても、オープンスペースなどで他人を排除するような言動があるので、そのたびに「ここはお母ちゃんの部屋じゃなくて、みんなの集まるところなんだから」と言い聞かせてはいたのだが。

「もともとのご性格もあるのでしょうが、身体の大きなおじいさんなんかにでも、向かっていきますから、ご本人が怪我でもされたらたいへんなので」
 母親や主婦などというものは外面は穏やかでも、一歩家に入ればまったく別の顔を持つものと私は幼い頃から思っていたから、それが当たり前と感じていたのだが、それにしても母はかなり気性の激しい方だったようだ。感情が平坦で無神経、ノーテンキな私とはちょうど良い組み合わせの母娘だったのかもしれない……。
「良いところもあるんですよ、みなさんによく話しかけますし。ただ自分のお部屋に関してだけはそういうことなので。収益上の問題もありまして、うちでも二人部屋を常に一人で使っていただくわけにはいきませんから」
 
 今すぐ退所してほしいとは言わないが、それまでは薬で対処することを承諾してほしい、ということだった。
「夜だけですか?」
「いえ、昼間も」
「承知しました」
 頭を下げて、老健を出る。
 がんの方が一段落したら、母の方が新局面を迎えた。  
 
 第二ラウンド開始。
 どよ~~~~ん、とつぶやきながら一人、川の堤防上の道を自宅に向かった。
 まだまだ先は長い。

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篠田節子

しのだ・せつこ●1955年東京都生まれ。作家。90年『絹の変容』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。
97年『ゴサインタン』で山本周五郎賞、『女たちのジハード』で直木賞、2009年『仮想儀礼』で柴田錬三郎賞、11年『スターバト・マーテル』で芸術選奨文部科学大臣賞、15年『インドクリスタル』で中央公論文芸賞、19年『鏡の背面』で吉川英治文学賞を受賞。『聖域』『夏の災厄』『廃院のミカエル』『長女たち』など著書多数。
撮影:露木聡子

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