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篠田節子「介護のうしろから『がん』が来た!」

インテリオヤジが案内するせんべろの名店

 一日経った翌日の夜中、お腹が張って眠れず、そのまま起きだして仕事を始め、一時間ほどして手洗いに。本来ならそこですっきりするはずが、お腹の張りが取れない。
 十分後に下痢。
 はぁ? ブータンの星無しホテルで従業員用のご飯をいただいたときも、チベットの食堂でツァンパを手づかみで食べたときも、インド辺境の市場でガイドに「自己責任ですよ」と釘を刺されながらサモサを食べたときも、お腹をこわすことなどなかった私が……。
 恐るべし御徒町。

 排泄してしまえばすっきりするだろう、とのんびり構えていたが、どうも様子が違う。
 吐き気が少々、食欲はまったく無い。鉛を飲んだような、という表現がぴったりくるような胃の重さに加え、節々が痛い。
 仕事を続けていると目の奧が痛み出した。熱を測ると38度。喉や鼻はまったく大丈夫なので風邪やインフルエンザではなさそうだ。
 おかゆもお茶も欲しくないので、白湯だけ飲んで寝る。
 その夜は、ウィーンフィルのメンバーによるディナー付き室内楽コンサートという、とてつもなく優雅な新年会が予定されていたので、何とか早く治そうと布団に潜った。ところが夕刻にかけてどんどん熱が上がってきて、無念の欠席となった。
 
 39度近い熱ではさすがに頭痛がして本も読めず、翌日も白湯を飲んで終日、うとうとして過ごす。熱は下がらず食欲はない。それでもその後下痢はないので特に医者に行くこともなく、ネットで症状を調べると、どうやらウィルス性胃腸炎の様子。世間では流行の真っ最中であることを知る。
 子供でも高齢者でもないのに、そんなものに感染するとは。なんだかんだ言って体力が落ちていたことを痛感し、不摂生を深く反省する。
 
 母の洗濯物の交換のために老健に行かなければならないが、こんな状態で介護フロアに上がりウィルスをまき散らすわけにはいかない。電話をかけて事情を話し、一階の事務室で、汚れ物と洗濯済みの衣服の交換をさせてもらうつもりだったが……。
「少々お待ちください、今、看護師と相談します」と事務担当者の返事があった。
 何の相談?
 
 数分待たされた後、「無理して来られなくてけっこうです」
 確かにエントランスや事務室であっても、ウィルスに汚染された人間にうろうろされては困るだろう。それに一階フロアにはデイサービスセンターもあるのだ。
「それでは主人に行ってもらいます」
「いえ。感染の怖れがありますからご自宅での洗濯はご遠慮いただいて、当方での業者洗濯でお願いします」
 なんとそこまで警戒されていた。
 ちなみにその後、回復してからもしばらくの間、老健へは出入り禁止となった。老健に限らず、様々な施設でインフルエンザやウィルス性胃腸炎で高齢者が亡くなるたびに話題になる。管理する側としてはこの季節はさぞ神経を使うことだろう。
 
 病気の方は白湯だけ飲んで丸二日寝ていたら、三日目の朝、突然平熱に下がり、目の裏の痛みも関節の痛みもすっかり止んだ。
 その日の深夜から翌日の午前一時頃までラジオの生番組の出演が予定されていたので、午前中にディレクターとメールでやりとりし、一応、大事をとって車でスタジオまで向かう旨を書き送った。
 しばらくして携帯に電話がかかってきた。
「今、話し合いの結果、プロデューサーの意向で今回は電話出演ということでお願いします、とのことです」
 えー、もう何ともないんですけど……という言葉は飲み込む。
 症状が無くなっても体内からウィルスがいなくなるわけではない。天下のNHKのスタジオ中にウィルスをばらまいたら、まさにテロだ。高齢者施設でなくても出入り禁止は当然の判断だった。
 その夜は、二時間近い番組を電話出演で乗り切った。本人的にも初めてのことでかなり緊張したが、アナウンサーとスタッフの方々にはたいへんご迷惑をかけた。
 病み上がりのせんべろは厳禁。年初の教訓だ。

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篠田節子

しのだ・せつこ●1955年東京都生まれ。作家。90年『絹の変容』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。
97年『ゴサインタン』で山本周五郎賞、『女たちのジハード』で直木賞、2009年『仮想儀礼』で柴田錬三郎賞、11年『スターバト・マーテル』で芸術選奨文部科学大臣賞、15年『インドクリスタル』で中央公論文芸賞、19年『鏡の背面』で吉川英治文学賞を受賞。『聖域』『夏の災厄』『廃院のミカエル』『長女たち』など著書多数。
撮影:露木聡子

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