よみタイ

天使が微笑む都 七年ぶりのバンコクの酷寒

認知症の母を介護しながら二十年。ようやく母が施設へ入所し、一息つけると思いきや――今度は自分が乳がんに!? 介護と執筆の合間に、治療法リサーチに病院選び……落ちこんでる暇なんてない! 直木賞作家・篠田節子が持ち前の観察眼と取材魂で綴る、闘病ドキュメント。 前回まではこちら→https://yomitai.jp/series/gangakita/

介護のうしろから「がん」が来た! 第21回

 手術から25日後、退院から20日後の五月半ばに、かねてより計画していたバンコク行きを決行した。

 母から目が離せなくなって数年、泊まりがけの旅行は難しかったのだが、昨年11月にその母が老健に入ってくれたのを機に、今年2月に申し込んだ。その後、私のがんが発見され手術が決まったのだが、未練たらしくキャンセルしなかった。
 海の外に出たい。ブータン、チベット、インドの田舎、などと贅沢は言わない。安近短でいいから海外。長らく八王子に閉じ込められ、ここ数年、母を連れてコミュニティバスで市内小旅行しか叶わなかった者の欲求不満が極限まで溜まっていた。
 もともと豪邸にも広いマンションにも、おしゃれなインテリアにも興味のない女だ。知らない世界を見たい、とにかく日本の外に出たい、という気持ちは五十を過ぎれば収まるものだろう、と思っていたが、還暦を超しても変わらない。この数年は、ひたすら衛星放送のナショジオ、アニマルプラネット、ディスカバリー等々のチャンネルを見て欲求不満を解消していた。主人公が外国でテロ組織の人質になったり、警察に捕まったりとひどい目に遭う「史上最悪の地球の歩き方」という番組さえ、喜々として視聴していた。

 手術が決まった四月初めのこと、恐る恐る乳腺外科のT先生に旅行の件を切り出した。先生はカレンダーに目を凝らし、日数を数えた後、慎重な口調で言った。
「術後三週間経っているから大丈夫でしょう。ただし経過次第ですよ」
 やった、と内心飛び上がりながら、神妙にうなずく。
「経過が良くなければ熱海にしてね」と執刀医のY先生が相変わらずとぼけた口調でぼそり。
 
 そして術後二週間が経過した診療日のこと。
「ああ、大丈夫でしょう」
 傷口を確認した形成外科のN先生がOKを出した。
「歩き回ったり観光はするんですか?」
「いえいえ、リゾートホテルで一日中のんびりしてるだけです」
「海で泳いだりはしないでしょうね」
「人口900万の下水が流れ込むバンコクの海で泳いだら死んじまいまーす」(ってか、バンコクに海はない。チャオプラヤー河口のあるタイ湾には、リゾート地パタヤがあるが)
「まあ、ホテルでゆっくりするだけならいいでしょう。胸を揺らすような運動はしないでくださいね」
 それからまたしても恐る恐る尋ねる。
「あの……ホテルのプールはだめですかね」
 N先生の視線が泳いだ。
「水質が心配だけど、それほど不潔なところは、今どきあまりないでしょうから」
「それから……あの……お酒は……」
「そこまで行って飲めなかったら面白くないでしょ」と今度はY先生が即答。
 ただし右胸に入っているティッシュエキスパンダーが空港の保安検査場の金属探知機に反応する場合があるとのことで、英語で書かれた証明書を発行してもらった。
 幸い金属探知機は反応せず、五月半ばに、無事バンコクに到着(当然、エコノミー)。

 

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篠田節子

しのだ・せつこ●1955年東京都生まれ。作家。90年『絹の変容』で小説すばる新人賞を受賞しデビュー。
97年『ゴサインタン』で山本周五郎賞、『女たちのジハード』で直木賞、2009年『仮想儀礼』で柴田錬三郎賞、11年『スターバト・マーテル』で芸術選奨文部科学大臣賞、15年『インドクリスタル』で中央公論文芸賞、19年『鏡の背面』で吉川英治文学賞を受賞。『聖域』『夏の災厄』『廃院のミカエル』『長女たち』など著書多数。
撮影:露木聡子

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