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東大京大医学部志望ばかりの超進学校で「神戸大学志望」を貫いた足るを知る男【学歴狂の詩 第13回】

稀代のカルト作家として人気を集める佐川恭一さんによる、初のノンフィクション連載。
人はなぜ学歴に狂うのか──受験の深淵を覗き込む衝撃の実話です。

前回は、大阪大学と慶應大学どちらに進学するか悩んだイケメンが登場しました。
今回は、足るを知る男・本田についてのエピソードです。

また、各話のイラストは、「別冊マーガレット」で男子校コメディ『かしこい男は恋しかしない』連載中の凹沢みなみ先生によるものです!
お二人のコラボレーションもお楽しみください。
イラスト/凹沢みなみ
イラスト/凹沢みなみ

とにかく地頭がいい本田

 中学時代、私の地元の進学塾では――本連載第一回でも触れた通り――ほぼ常に校内ベスト3が固定されており、その全員が某R高の特進上位コースに進んだ。そして塾で一位だった私と、隣町の中学校の絶対王者であり塾では大抵三位だった本田が某R高で同じクラスになった。ちなみに、当時某R高の特進では三年間クラス替えがなかったため、私と本田は三年間ずっと一緒の教室で過ごすことになった。

 本田はとにかく地頭がいいタイプで、中学時代からそれほど無理な勉強はしなかった。私が気絶寸前になるまで自分を追い込んでいるのとは対照的に、「佐川はすげえなあ」などと言ってニコニコして、私を抜かそうという野心などはまったく出すことなく成績上位をキープし続けた。中学生ながらに私は本田の潜在能力が自分よりも高いのではないかという恐れを抱いていて(そしておそらくそれは正しい予感だったと思う)、本田が本気モードに入らないかどうか、いつも緊張感を持って注視していた。当時の私の方が今の財務省よりも高い緊張感を持っていたと言っても過言ではないだろう。

 さて、私たち塾のベスト3には、某R高の他に東大寺学園とラ・サールを受けに行くよう校長から指示があったのだが、私と二位の二人は普通に受けに行ったものの、本田はどちらにも出願しなかった。

「受けろって言われても、行きもせえへん高校やしなあ……」

 本田はつねづねそう言っており、三人全員が受験ツアーに参加すると思い込んでいた塾の校長は本田が一番受験日の早かった東大寺に出願しなかったと聞いた時、教室で誇張抜きに腰を抜かして倒れ込んだ。いつも厳しかった美人の校長がめずらしくナヨナヨした声で「な、なんで!?」と聞くと、本田は申し訳なさそうな顔で「いや、受かっても行かないんで……」と言うのみだった。たとえばかの有名な浜学園でも、複数の難関中学に合格すれば三冠だか五冠だかのトロフィーがもらえると聞くし、そんなことを言われればやる気を出さずにいられないのが普通の小中学生というものではないだろうか? 私たちの塾にはトロフィー制度こそなかったものの、本田は「レベルの高い有名高校に複数合格して自分の経歴に箔を付ける」という、その進学塾にいれば当然インプットされるはずの価値観にまったく染まらなかったのである。

学歴高野山

 本田の独立独歩の精神は、あのスーパー学歴洗脳施設(注:今のことは知りません)某R高においても継続して保たれた。東大京大国公立医学部志望でなければ人間として扱われないあの異空間で、本田ははじめこそなんとなく京大を目指してはいたものの、自分の成績を鑑みて早々に「神戸大学」に照準を絞ったのである。第四回で紹介した英語教師のエピソードを参照してもらいたいが、その異空間において「神戸大学」というのはまともな大学として扱われていなかった。

 岸田総理が二浪で東大落ち早稲田となり、東大ばかりの家系だったために「うちで大学と呼べるのは東大だけだ。お前は一族初の高卒だな」と言われたとか言われてないとかいう話が有名だが、岸田家ほど極端ではないにせよ、我が校にも似たような雰囲気が充満しており、外界とは隔絶された価値観の小社会が形成されていた。高野山へ行ったことのある方にはわかってもらえると思うが、あそこはまさに宗教都市という感じで訪れるだけでも心が洗われる気がするものだが、あの弘法大師空海を起源に持つ某R高は、平地に学歴高野山を作り出したのだ。学歴高野山を訪れると、頭から煩悩ではなく神戸大学や大阪公立大学が消滅する。

 こうして改めて客観的に書いてみるとなんとアホな考えなのだろうと思うが、あの空間において神戸大学を大学と考えることは猛烈に難しいことだった。我々の内部では、神戸大卒は高卒だった。裏を返せば、人間を洗脳することがいかに簡単なことか私は身をもって知っており、おそらく今もってあの時代の洗脳は解き切れていない。私だけでなく、私と似たような環境に置かれていた進学校生たちは大抵みんな普通に大学を卒業し、さまざまな人間と触れ合い、経験を積んで社会に順応し、一般的な価値観をインストールしていく過程を経る。そして定期的な酒の席で「あの頃はどうかしてたよな」と笑い話として受験生活を昇華するわけだが、そいつらの頭をコンコンと軽く叩いてみてほしい。かつてテレビでやっていた代ゼミのヤバすぎるCM、「東大代ゼミ!京大代ゼミ!東大京大医学部代ゼミ!合格YEAH!必勝YEAH!」の音が小さく流れ出すはずである(知らない人はYouTubeであの狂気のCMを見てほしい)。

 そういうわけで(?)、どう考えてもアホとしか思えない奇妙な宗教や商売にのめり込んでしまって誰の言葉にも耳を貸さない人間というのをみなさんも一人ぐらいは見たことがあるかと思うが、私はその心理をまったく他人事と考えることはできない。私はいまだに東大京大病のせいぜい「寛解」状態にあるのであり、いつそれがまた再発するかわかったものではない。実際「○○さんのご兄弟が~」などという言葉を聞くだけで、それが明らかにbrotherの意味だとわかっていても、いまだに時計台の映像が瞬時に頭に浮かんでしまう程度には、後遺症が残ったままなのである。

 だが、独立独歩の本田はそうした伝染病にまったく罹患することなく、模試で第一志望の欄に「神戸大学経済学部」と書き続けた。百四人いた特進コースで、定期テストは八十位ぐらいの成績だったが、神戸大学は大体B判定、三年生になるとA判定を連発するようになった。詳しくは聞いていないが、定期テストの順位もその頃にはもう少し上がっていたのかもしれない。私と一緒に自習していた西田(第五回参照。後に一浪で大阪市立の医学部に合格)は某R高でも成績上位で、模試の時に志望欄に「神戸大学医学部」も書いていたのだが、経済学部と医学部の偏差値は大体4000ぐらい違うため、大抵は本田が神大A判、西田が神大D~E判あたりになってしまう。それで西田がよく「おい、本田は神大A判やぞ! 西田はもうちょっと頑張らなあかんのちゃうか?」とイジられていたのを覚えている(みんな本田がほどほどにしか勉強しないのに対して、私や西田が塾の自習室で死ぬまで勉強しているのを知っていたのである)。

 私は本田のセンター試験の点数を知らないが、おそらく神大には十分な点数を取っていたのだろう、本田は迷いなく神大経済学部に出願を決めた。他のクラスメイトがセンターの結果を受けて「阪大にしようか迷ってます……」と言うのを担任が次々に尻をバチバチ叩いて京大送りにしようと躍起になっていた、その狂騒ともはるかに離れたところで本田は我が道を突き進み、神大志望を貫き現役で神戸大学に合格した。本人は「ヨッシャー!」という感じでもなく「ふむ。」という感情を抑えた雰囲気で――もしかするとクラス五十二人中四十人浪人という結果でお通夜状態だった全体の空気を読んでいただけだったのかもしれないが――「佐川なら来年は絶対京大受かるわ」などとこちらへの気遣いまで見せてくれたのだった。

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佐川恭一

さがわ・きょういち
滋賀県出身、京都大学文学部卒業。2012年『終わりなき不在』でデビュー。2019年『踊る阿呆』で第2回阿波しらさぎ文学賞受賞。著書に『無能男』『ダムヤーク』『舞踏会』『シン・サークルクラッシャー麻紀』『清朝時代にタイムスリップしたので科挙ガチってみた』など。
X(旧Twitter) @kyoichi_sagawa

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