2022.11.29
この座敷に花魁は永遠に来ない──十返舎一九『東海道中膝栗毛』と都会コンプレックス
地元や地方でイキり散らかして女性や弱者を尊重しない男が、都会の街そのものから手痛い目に遭うのは、現実でもたびたび食事に行くと目撃してしまうし、何より『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』の表題作を想起せざるを得ない。
『東京カレンダー』を愛読する港区アラサー男子の主人公が、マッチングアプリで出会ったウェブマーケ会社勤務の二十代半ばの女性にイキると「それは普通に古いしダサいですよ」と咎められ、彼女の遊び場である神泉の雰囲気に打ちのめされてしまう。詐欺みたいな外見改善コンサルに買わされたひと昔前のファッションに身を包んだアラサー男性が、立ち飲みビストロの中にいる「センター分けにキングヌーみたいなメガネ、バブアーの高そうなアウター」の若者たちを外から見つめている。
都会コンプレックスは江戸時代から現在に至るまで、水垢のように拭いても拭いてもしばらくすると浮かび上がってくる。ただし少し違うところは、弥次郎兵衛と喜多八の失敗譚はまだその文体や時代性で笑える話として描かれているけれど、現代のそれは泣いたり苦笑したりしながら打ち明けるものになる。『この部屋から〜』の感想をネットで検索すると、経営者や芸能人、高給取りから大失敗してしまった人まで、さまざまなひとが古傷を抉られながら共感を表している。笑えない物語に変容したものの、都会コンプレックスは今も揺るがない重大なテーマなのだ。
笑っちゃいながら読んで、サピックスやお受験塾に通う子供たちと通りすがるたび「あんなふうになるなよ〜」とのんきに祈っていた私は、やっぱり恵まれたモブなんだな、と再認識していた。自分が都会的だとも思わないけれど、「あんたみたいに恵まれた人間にはわからない」と言われた二十歳そこそこの頃は、必修科目を履修漏れしたまま進級してきてしまったような、ふわふわした不安と疎外感を抱いていた日々を思い出す。今は「その物語で私は永遠に主人公になれない」と割り切っているけれど。
さて、江戸文芸の連載の旅は長いようで気づいたらあっけなく終わっていた。途中で「翻刻 (活字になった資料)された本がないなんて!」と焦ったり、登場人物のぬけぬけとした性格にイライラすることもあったり、何度も締め切りを破って各所に迷惑をかけ……まさにドタバタ珍道中だったが、帰路に着くと妙にせつない。現代小説を読んで「やっぱりこれがいちばん!」と、帰国後に味噌汁やたまごかけご飯を食べた時のように大げさに感動したと思えば、しばらくしたら次の旅行の計画を企ててしまうように、きっとまた古典をたどる旅に出かけたくなると思います。その時はまたどうぞよろしくお願いします。
【注釈】
(*1)中野三敏『十八世紀の江戸文芸 雅と俗の成熟』(岩波書店 2015)。古くは主に連歌の領域で有心/無心と分類され、和歌的世界の連歌と、言語遊戯の俳諧の連歌で雅と俗は表現された。鎌倉期には「地下の連歌」というものが登場し、連歌師は宮廷ではなく社寺の催しで一般庶民の前で歌を詠む興行をした。このように中世までは階級によってゆるやかに線が引かれた上で、無心(俗)の連歌はしだい和歌的世界へ成り上がってゆく。近世ごろになると、この俗を徹底する姿勢を見せる作家が現れる。
(*2)「『膝栗毛』における悪と狂気」(旅の文化研究所編集『絵図に見る東海道中膝栗毛』p.129-134)
(*3)『10歳までに読みたい日本名作10 東海道中膝栗毛』(学研プラス 2017)では、「子どもたちに楽しんでもらえる事件をえらんで書きましたが」と後書きが付記されているとおり、弥次・喜多の経歴や、性的なことや今日では不道徳的な出来事はスポイルされている。大石学監修『現代語抄訳で楽しむ東海道中膝栗毛と続膝栗毛』(角川書店 2016)では、遊郭についての言及はあれど、藤川宿の精神疾患の女性については「不幸な娘」と、宮宿の瞽女の話はあらすじに「瞽女に手を出し一悶着」と触れるにとどまっている。
(*4)「『膝栗毛』に見る女──旅と性」(旅の文化研究所編集『絵図に見る東海道中膝栗毛』p.123-128)
【参考文献】
麻生磯次校註『日本古典文学体系62 東海道中膝栗毛』(岩波書店、1958)
大石学監修『現代語抄訳で楽しむ東海道中膝栗毛と続膝栗毛』(角川書店 2016)
十返舎一九原作、越水利江子文『10歳までに読みたい日本名作10 東海道中膝栗毛』(学研プラス 2017)
旅の文化研究所編集『絵図に見る東海道中膝栗毛』(河出書房新社 2006)
中野三敏『十八世紀の江戸文芸 雅と俗の成熟』(岩波書店 2015)
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