2022.5.31
湯の中の世の中(1)──式亭三馬『浮世風呂』にみる他者との距離
定点カメラで銭湯の様子を実況
そんな経緯もあり、伊藤単朴『銭湯新話』(1754・宝暦4)と山東京伝『賢愚湊銭湯新話』(1802・享和2年)と、銭湯を題材にした先行作品に続いて本作は書かれた(*2)。「前編」「二編」「三編」「四編」の四編構成で、はじめ男湯のみを描写した前編を出版し、これが好評だったため、女湯を舞台にし女性読者をターゲットにした二編と三編を出版。さらに前編の板木(印刷するための板)を火事で消失したのもあり、改めて男湯の人間模様を描いた四編を書いた。今回は男湯について書かれている前編と四篇について紹介したい。
本作の特徴は「糞リアリズム」と称されるように(*3)、銭湯に出入りするひとびとの会話が中心で、物語の筋やドラマチックなオチも乏しく、また「文学」として作品を貫くテーマも明確ではない。定点カメラで銭湯の様子をおもしろおかしく実況しているような娯楽作品、と評価されている。
落語を聞いていてアイディアが生まれた制作背景の通り、実際に文字を目で追ってみると、幼児語、老人、病の後遺症持ちの話し方、東北、関西、九州など各地の訛りや、酔っ払いのろれつの回っていないセリフ……と、身分や年齢問わず、さまざまな属性の人間の喋りが書かれる。参考に、前編の「朝湯之光景」序盤を、原文を引用しつつ紹介したい。
早朝、おそらく遊郭帰りの22、3歳の男Aが銭湯に入ろうとしている。彼の前を歩く20歳前後の男Bが唾を吐く拍子に、肩にかけた手拭いを落としたのをAが気づき、Bに教える。
A「べらぼい、手拭が落たイ。何をうか/\しやアがると」
Aはそう笑いながらBに声をかけた。Bは下駄の歯でぐるりとまわって手ぬぐいをひろひあげて前を向き直すと、そこにいた犬にまた躓いた。
B「ちくせうめ、気のきかねへ所にうしやアがる」
踏まれて「キャン」と鳴いた犬にBが悪態をつくと、Aがこう笑った。
A「ナニてめへが気のきかねへくせに、ざまア見や」
B「そねむなイ、此野郎」
と、こんな些細なきっかけで始まった口喧嘩がヒートアップし、勢いづいてAがBを突き飛ばすと、すでに銭湯の入り口にいたよいよい(当時、脳卒中の後遺症で言語障害や半身不随があるひとのことをこう呼んだ)のぶた七とぶつかってしまう。Bが立ち上がると、彼の持っていた手拭いに足跡がついている。
B「誰かモウ踏付た跡だ」
ぶた七「いゝ、今、今、おやふだ(おれがふんだ)」
A「おめへ踏んだか。なんの踏ずともな事だ。夫がほんとうのよけいだぜ」
ぶた七「よゝよけでも踏だかや(ら)、したゝねゝねなゝた。ココ、下駄たゝたつてたゝたゝたらた」
A「何をいふたかねつからわかねへ。コウおめへの病気もこまつたもんだぜ」
AとBは典型的な江戸の若年男性だ。べらんめえ口調はもちろん、手拭いを「てのごい」と発音したり、「居る」や「来る」を卑しめて表現する「うせやがる」を、更にくだけた表現である「うしやアがる」と言ったりと、言葉遣いだけでふたりの属性がイメージできる。
そしてぶた七とふたりの関わり合いにも注目したい。引用の通り、ぶた七の吃音はこの前編や、同じ男湯を舞台にした四編でもやや誇張されて描かれている。彼は足取りもおぼつかないのだが、自力で柘榴石をくぐって湯船に入ろうとする。AとBや番頭はそんな彼をハラハラしながら見守っているが、ぶた七は無茶して転んでしまう。彼を介抱しながら、Aが「夫見さつし。いふくちの下からころんだア。アハヽヽヽヽ(訳:それ見なさい。出入り口の下から中庭の土間に転んだ。アハハハ)」と軽く笑う場面がある。
私はこの笑いを当初どう受け取ればよいのかわからなかった。現代の──少なくとも私には、関係が構築できている相手、あるいは当事者の芸人や著名人が「笑ってほしいネタ」として表現してこない限り、身体障害者を笑っていいという感覚がない。。そもそも現代社会で、吃音のひとに対して「何を言ってるのかまったくわかんねえ」なんて言えない。この一節、当時と現代の感覚が違うことを踏まえて鑑賞していても、私は引いてしまった。
そんな調子でAとBは笑いながら、しかし、ぶた七が入浴し直すとき、再び足を滑らせないか見守っている場面が見られる。そもそもふたりとも一緒に銭湯に来た顔見知りではなく、この場に居合わせた赤の他人だ。冒頭から他者同士の関係の近さに私は驚いた。