2022.4.26
アンドロギュノスと心中──『比翌紋目黒色揚』と古代ギリシャ神話の、偶然
仏教的な「生まれ変わり」への理解
しかし、当然のことだが、心中というのは来世があるという前提で行われる。たとえばユダヤ教、キリスト教、イスラム教には天国や地獄があっても、前世や来世という、いわば「私になる前の私」や「私が去った後の私」は存在しない。生前や死後の世界でも、今この自分であることは変わらない。今日の日本でも、江戸時代ほど強く信じられていないにしろ、いいことがあった時に「前世の自分ありがとう」とツイートしたり、どうしようもない現状に直面し「来世に期待するしかない」とフランクに絶望したり、二次創作で転生パロディが定番ジャンルとなったりするのは、私たちがこの仏教的な「生まれ変わり」を信じている、あるいは、信じなくても理解できるためにほかならない。2022年春現在、まだTVアニメ版が完結していないので詳細は触れないが、あの『鬼滅の刃』でも……。
前の世界があったように、次の世界がある。そこに生まれ変わろう。今の世界を変えるのではなく、自分たちが去った後の次の自分に期待しよう。そういった感覚のもと心中が起こり、また心中した後の物語が生まれるのだろう。権八小紫――紫三郎と平井の同体の姿である紅白は、プラトン哲学的に言い換えるならふたりの「原形」であったのかもしれない。
両性具有についての仮説
さて、私の下調べが足りないのもあるかもしれないが、少し不思議に思ったことがある。両性具有が登場する神話やフィクションが、創世記や一神教の文化圏には見当たらなかったのだ。『饗宴』に出てくる人間の原形だけではなく、古代ギリシャ神話には両性具有の神が複数登場するし、ヒンドゥー教には右半身と左半身で異なる性を持つアルダナーリーシュヴァラ神が存在する。アステカ神話のトラルテクトリという地の神も両性とされている。距離も時代も離れた古代ギリシャの『饗宴』の「原形」と、江戸時代の『比翌紋目黒色揚』の紅白の姿がどこか似ていたのは、「かつての私」や「現世以前の私」という似た感覚を、偶然それぞれ持っていたからかもしれない。
偶然。私はこの相似に、「実は古代ギリシャ人が日本に渡っていて……」というような陰謀・オカルト的なつながりや因果を結びつける余地はないと思う。ただの偶然だからこそ、心が躍るのだ。
なお言うまでもないが、両性具有神話の有無は文化的優劣をつけるものではないこと、現実の男女の双子にはなんの関係のない、フィクションや過去の迷信を踏まえた鑑賞であることを、念のため明記しておく。
【注釈】
(*1)歌舞伎などのフィクションでは実名の「平井」ではなく、「白井権八」と呼ばれることが多い。 確たる証拠や論文を見つけられなかったので、あくまで私の考察だが、平井権八が「白井権八」と名前を変えられているのは、フィクション上ではさまざまな脚色がされたキャラクターであるため、実在した人物との差別化を図っているのではないだろうか。また(源氏名とはいえ)小紫や幡随院長兵衛のように、実在したがさほど脚色されていない人物はそのまま実名でフィクションに登場している。本作の主人公はあくまで平井と紫三郎であり、権八は他作品ほどの強烈な脚色はされていないため「平井」姓で登場しているのかもしれない。
(*2)比翼塚は心中したカップルや、仲の良い夫婦を共に葬った墓の総称である。
(*3)それ以前より女学生同士の親密な関係や心中はあったとされるが、1911年の新潟女学生心中事件をきっかけに社会問題になった。
【参考文献】
赤枝香奈子『近代日本における女同士の親密な関係』(角川グループパブリッシング 2011)
板坂則子『江戸時代 恋愛事情 若衆の恋、町娘の恋』(朝日新聞出版 2017)
今田絵里香『「少女」の社会史』(勁草書房 2007)
曲亭馬琴作 歌川豊国画『比翌紋目黒色揚』(国立国会図書館所蔵、1815・文化12年)
児玉幸多編『くずし字解読辞典 普及版』(東京堂出版 1993)
プラトン著 久保勉訳『饗宴』(岩波文庫 1952)
メアリ・ミラー、カール・タウべ著 武井摩利訳『図説マヤ・アステカ神話宗教事典』(東洋書林 2000年)」
『角川古語大辞典』第二巻、第三巻(角川書店 1982)
連載第8回は5/31(火)公開予定です。