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村井理子「犬と本とごはんがあれば 湖畔の読書時間」
実兄の孤独死をめぐる顚末を、怒り、哀しみ、そして、ほんの少しのユーモアで描いたロングセラー『兄の終い』のほか、翻訳書『メイドの手帖』や『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』、最新作のエッセイ『全員悪人』など、数多くの注目作を手掛ける翻訳家の村井さんが琵琶湖畔に暮らして十数年。
夫、10代の双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリー君と賑やかな毎日を送っています。
公私ともに古今東西の書籍にふれる村井さんは、日々何を読み、何を思い、どう暮らしているのでしょうか。
人気翻訳家によるエッセイ+読書案内。

47歳の世界に突然飛び込んできたもの—心臓病の手術を経験したあとで

 不思議なもので50歳前後に達すると、世の中の景色ががらりと変わって見えてくる。これは私の仕事仲間や友人知人も口を揃えて言うことなのだが、突然、様々なものごとが視界に入りはじめ、そしてその意味が、理由が、自然に頭に流れ込んでくるようになる。すべての謎が一気に解けたような「ああ、そうだったのか!」という境地に達する。そして突然、はっと我に返り、人生が折り返したことを悟る。私自身にも同じことが起きたが、できればもっともっと早くこの境地に達したかったものである。具体的に書くと、40歳ぐらいで。

 こうやって書きながら、自分のふがいなさでクスクス笑ってしまうのだが、私の場合、47歳でそのときはやってきた。心臓病になり、手術を経験したのだ。その大きな経験が、私の世界を以前とはまったく異なるものに変えてしまった。47歳にして、いきなり別世界に辿りついたようなもの。理想よりはちょっと遅かったが、辿りつくことができたので、ヨシとしよう。

 私の世界に何が突然飛び込んで来たかというと、それは予想もしていなかったものばかりだった。一見、元気そうな人のカバンにつけられたヘルプマーク、思わぬところに存在する点字ブロックやAEDがどんどん見えてきたのだ。手すりやベンチにすがるようにして歩く経験をしてはじめて、それが街に存在したことにはっきりと気づいた。何かしら助けが必要な人のための工夫が、突然視界に入りこむようになり、その存在に無感覚でいたことを恥ずかしく思い、そしてその圧倒的な不足に驚いた。もっともっとあっていい。だって考えてもみてほしい。少子高齢化でくたびれるばかりのこの国で、助けを必要とする人たちは多くいるというのに、その人たちに本当に届いているのだろうか。心臓を病んだ経験のある私が思うに、まったく足りていないと思う。
 47歳でこんなことにはっと気づき、50歳を超えたあたりで人生が折り返したことを悟り、次に私が否応なしに考えねばならなくなったのは、老いについてだ。いつの間にか低下する視力、遠ざかるこってりラーメン、手に持つとずっしり重いハンバーガー。こんなはずではなかった。目の前に「初老」という文字がちらついてくる。若い人は大げさと思うかもしれないし、私よりも上の年代の先輩方は、「まだまだ!」と思うかもしれないが、私自身はもう、すっかり先の20年を見据えるような気持ちだ。
 これはやはり、親世代の病や生活の困難さを目撃したからだろう。実の母は75歳で癌と同時に認知症となり、私は彼女の辛さや悲しさに気づくことにも、受け止めることにも失敗し、寂しい晩年を過ごさせてしまったと思う。それを、今になってひしひしと感じている。実の親としてはもちろんのこと、同じ女性として、彼女の人生の最期に伴走すべきだった。もっと顔を合わせて、話をすべきだった。ややこしい娘を育ててくれてありがとうと、ひと言でも伝えることができていたらと後悔ばかりだ。

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村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。主な連載に「村井さんちの生活」(新潮社「Webでも考える人」)、「犬(きみ)がいるから」(亜紀書房「あき地」)。主な著書に『兄の終い』(CCCメディアハウス)、『村井さんちの生活』(新潮社)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』(亜紀書房)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)など。主な訳書に『サカナ・レッスン』『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『人間をお休みしてヤギになってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。
家族の実話を描く近刊のエッセイ『全員悪人』が大好評、話題となっている。
最新刊は『ハリー、大きな幸せ』(亜紀書房)、および『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)。

ツイッター:@Riko_Murai
ブログ:https://rikomurai.com/

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