夫、10代の双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリー君と賑やかな毎日を送っています。
公私ともに古今東西の書籍にふれる村井さんは、日々何を読み、何を思い、どう暮らしているのでしょうか。
人気翻訳家によるエッセイ+読書案内。
2020.12.28
文字が見せてくれる唯一無二の瞬間—ささやかな暮らしと命の存在を確かめて

日記が好きだ。読み物のジャンルとしても好きだし、自分で書くことも好きだ。
幼稚園に入ったばかりの頃、母に言われ、日記を書きはじめた。緑色のビニール製の表紙で、どっしりとした重みのある立派な日記帳だった。どうにかして私に読み書きを教えようと、鉛筆と日記帳を与え、実際に文字を書かせることにしたのだろう。母が私を連れて、駅前通りにあった文房具店まで日記帳を買いに行った日のことを記憶している。わざわざ立派なものを買ったのは、簡単に諦めさせないぞという母の決意の表れだったのかもしれない。兄にもまったく同じ日記帳が母から手渡され、私と兄は毎晩学習机に向かい、その日のできごとを競うように綴りはじめた。怠け者の兄妹を机に向かわせるほど、その日記帳には威厳があった。
私の書くことはいつも平凡だった。ピアノの練習をした、大好きなフルーツけしごむを買ってもらった、チョコレートを食べた、ママに叱られた……そんな文章が並んでいた。しかし、兄の日記は違った。今日は妹に鮨屋でぼくの分のまぐろを食べられてしまった、妹に野球を教えたけれど、すぐに泣くからめんどうでたまらない、それにしてもまぐろを食べられたことが腹立たしい、こんどあいつをとっちめてやる! と、兄はいきいきと綴るのだった。兄の日記は、わが家で人気の読み物となった。
とにかく兄は、私を自分の日記の中でからかうことに精を出し、どうしたら家族を笑わせることができるか、そればかり考え、工夫を凝らしていたのだと思う。私と兄の日記は数か月もすると畳の上に投げ出されるようになったが、その後、何年もわが家に保管されていた。母が、思い出したようにページをめくり、大笑いする。夜遅く帰ってきた父が、こたつで開いて読みふけり、ふふふと笑う。そんな光景を何度も目撃した。私も、幾度となく読み返した。私がその日記を最後に読んだのは、確か二十歳を過ぎてからのことだ。それほど長く、二冊の緑の日記帳は、わが家に大事に保管されていた。今、その二冊がどこに行ってしまったのかはわからない。