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翻訳家というミステリアスな職業—ギリギリの生き方をしてまでなぜ翻訳をするのか

 こんな理由で、翻訳家として働きながら、二足目のわらじを履いている人が多いのだと思う。私自身も、エッセイストという肩書きをありがたく頂戴し、こうやって様々な媒体に寄稿することで、どうにかして安定した収入を得ようと奮闘している。わが家は共働き夫婦なので、私の収入がイマイチな月は夫の収入に頼ることもあるし、逆もまたしかりといったわけだ。しかし、この状況はなにも翻訳家に限ったことではなく、ありとあらゆる仕事に従事するフリーランスであれば、同じだろう。翻訳家だけが特別、不安定な職業だというわけではないはずだ。

 安定した収入を得ることが難しく、いつ無職になるかわからないというギリギリの生き方をしてまで、なぜ翻訳をするのだろうと、最近しみじみ考えている。いくら考えても明確な答えは出ないが、ひとつだけわかることは、何ヶ月もかけて向き合ってきた訳文が、きれいな装幀をまとって書店に並べられ、多くの読者の手に渡ることが、私にとってこのうえない幸せだということだ。そこに辿りつくまでの苦しさのすべてが、一瞬で報われるほどである。私の胸いっぱいに広がる喜びは、数字だけでは計れない類いのものであって、だからこそ、このミステリアスな世界に居座り、苦しい、もうダメだとうめきつつも、せっせと仕事を続けているのだろう。

 今回読んだのは、宮崎伸治の『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記 こうして私は職業的な「死」を迎えた』である。帯に「出版界の暗部に斬りこむ天国と地獄のドキュメント」とあるように、大ベストセラーを出版したベテラン翻訳家が、失意のなかで出版業界を去るまでが克明に綴られている……と書くと、なにやら真面目な本かと思われるかもしれないが、抱腹絶倒のジェットコースター本である。気を抜いていると欄外注で爆笑してしまうので要注意だ。それにしても、なんという凄絶な経験だろう。胸が痛んで仕方がないし、怒りが湧くというのに、笑ってしまうのはなぜだ!? しかし、本書のなかで最も感動したのは、そのあとがきだった。著者の今現在の職業についての思いが綴られた一行に、涙が止まらなかった。私の個人的な感慨があってのことだが、その一行から浮かび上がる著者の決意と翻訳への愛に心揺さぶられたのだ。以前読んだヨシタケシンスケさんの本に「人生のピークは遅い方がいい」とあった。そんなひと言を思い出し、涙を拭いながら本を閉じた。

宮崎伸治『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記 こうして私は職業的な「死」を迎えた』(2020年11月/フォレスト出版)
宮崎伸治『出版翻訳家なんてなるんじゃなかった日記 こうして私は職業的な「死」を迎えた』(2020年11月/フォレスト出版)
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村井理子

翻訳家、エッセイスト。1970年静岡県生まれ。琵琶湖畔に、夫、双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリーとともに暮らしながら、雑誌、ウェブ、新聞などに寄稿。主な連載に「村井さんちの生活」(新潮社「Webでも考える人」)、「犬(きみ)がいるから」(亜紀書房「あき地」)。主な著書に『兄の終い』『全員悪人』(CCCメディアハウス)、『犬ニモマケズ』『犬(きみ)がいるから』『ハリー、大きな幸せ』『家族』(亜紀書房)、『村井さんちの生活』(新潮社)、 『村井さんちのぎゅうぎゅう焼き』(KADOKAWA)、『ブッシュ妄言録』(二見書房)、『更年期障害だと思ってたら重病だった話』(中央公論新社)など。主な訳書に『サカナ・レッスン』『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『ゼロからトースターを作ってみた結果』『人間をお休みしてヤギになってみた結果』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖 最低賃金でトイレを掃除し「書くこと」で自らを救ったシングルマザーの物語』『エデュケーション 大学は私の人生を変えた』『捕食者 全米を震撼させた、待ち伏せする連続殺人鬼』など。
新刊エッセイ『いらねえけどありがとう いつも何かに追われ、誰かのためにへとへとの私たちが救われる技術』(CCCメディアハウス)が、12月16日に発売!


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