実兄の孤独死をめぐる顚末を、怒り、哀しみ、そして、ほんの少しのユーモアで描いた話題作です。
『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』『黄金州の殺人鬼』『メイドの手帖』など、数多くの注目翻訳作品を手掛ける村井さんが琵琶湖畔に暮らして、今年で15年になりました。
夫、10代の双子の息子、ラブラドール・レトリーバーのハリー君と送る賑やかな毎日―。
公私ともに古今東西の書籍にふれる村井さんは、日々何を読み、何を思い、どう暮らしているのでしょうか。
人気翻訳家によるエッセイ+読書案内。
2020.11.30
迷路を彷徨する母の赤いハイヒール—40年前の夏、彼女は何を探したか

母はその日、朝早くから熱心に身支度を整えていた。狭くて古いアパートの一室に置かれた小さな鏡台の前にキャミソール姿で正座して、時間をかけて化粧をしていた。中指の腹にコットンを置き、それを人差し指と薬指で挟む。化粧水の瓶をトントンと押しつけて、そしてゆっくりと肌に浸透させる。化粧水が終わると、次は乳液だ。両手を使って顔全体を包み込むように、丹念に塗る。それが終わると、おしろいを何度も顔全体にはたき、アイラインを太く引いた。まつげをビューラーで持ち上げ、何度もマスカラを塗った。黒い繊維の入った当時流行のマスカラは、エメラルドグリーン色の容器に入っていた。母の顔は別人のようにきれいになった。
次に母は、丁寧に髪をとくと、櫛の先を使っていくつかに分け、赤い大きめのカーラーで巻いていった。襟足の長い髪まですべてきれいに巻き終わると、カーラーを巻いたままの姿で着替えはじめた。安っぽいビニールのカバーがついた衣装ケースからベージュの麻のワンピースを引っぱり出し、右手で日差しにかざしてシミがないか念入りにチェックした。表面の小さなほこりを見つけては、ひとつひとつ、丁寧に左手で取り除いた。
母はその麻のワンピースを一旦テーブルの上にそっと置くと、「触らないでよ」と私に言った。うんと頷いた私は、口をぼんやりと開けながら、いつもとまったく違う姿に変身していく母を見ていた。押し入れからハンドバッグを取り出してきた母は、ようやくワンピースを身につけ、真っ赤なベルトを手にして腰の辺りをきゅっと絞った。そして髪に巻いた赤いカーラーを取り外し、両手で素早く髪を整え、紫色のスプレー缶に入った、強くてしつこいにおいのするヘアスプレーを勢いよく吹き付けた。最後に口紅を引き、笑顔を作って鏡に映し、私の手を引いてアパートを出たのだった。
母と私はバスと電車を乗り継ぎ、遠くの街に辿りついた。私は一度も来たことがない場所で、幼い私にとっては大都会のように見えた。ビルが建ち並ぶ大通りを、母に手を引かれて大急ぎで歩いた。母は赤いハイヒールを履いていた。その赤いハイヒールがアスファルトを叩いて音を出す度に、私は母を誇らしく思った。こんな靴を履けるなんて、ママってすごいなとうれしくなった。大通りから逸れ、しばらく住宅街を進むと、そこには美しい公園があった。遊具は少なかったが、至る所にベンチが置かれ、そのベンチの後ろには、立派な木が青々とした葉をたっぷりとつけていた。季節は夏で、セミが鳴いていた。母は白いハンカチで汗を拭い、私まで汗をかいていることに気づくと、私の汗も拭ってくれた。
母はそわそわとして、落ち着きがなかった。急ぎ足でハイヒールを鳴らして、どんどん進む。私の手を強く引っぱり、遠慮なしに進む。そして、ずいぶん進んでは、「おかしいなあ」と口にした。ハンドバッグから小さな紙を取り出して、そこに描かれた地図を何度も確認する。不安そうに辺りを見回し、「絶対にこの場所なのに」と繰り返す。そして少し先の角を曲がり、そしてもう一度角を曲がり、少し戻り、また角を曲がっては、同じ公園の前にたどりつくのだ。母は、「また公園……?」と怯えたように言いはじめた。