2020.8.24
料理に心底疲れ切った絶望感—もう一度、向き合おうと思うまで
ここ数年、料理に対する情熱がどんどん失われつつあった。その理由はいくつか考えられるけれど、「疲れた」というひと言でほとんどすべて説明できるだろう。なにがどう疲れてしまったのかを説明すると、決まって「え、そんなことで?」と驚かれる。そこは盲点だったなあと感心されてしまう。種明かしをすると、私が心底疲れてしまったのは、自分自身の「味」だ。自分が作り出す、何十年も変わらない自分の味に疲れて、嫌気がさし、心底うんざりしている。ため息が出るほど自分の料理に飽きた。豪華なものなんていらない。奇抜なアイデアも必要ない。ただただ、私は自分以外の誰かが作ってくれた、何の変哲もない一皿に飢えている。そして私は、誰かのために作ることに、疲れ切ってしまったのだ。
両親が共働きだったため、小学校の低学年から料理は作り続けてきた。最初はインスタントラーメンぐらいしか作ることができなかったけれど、火の扱いへの恐怖心が徐々に薄らぎ、やがて自信に変わると、次々と新しいレシピに挑戦するようになった。それは料理というよりは、むしろ図画工作や理科の実験に近かった。材料を切って、火を通して、調味料を加えていくことで、食べることができる何かになるという面白さと、それを「美味しい」何かに変えていくことの楽しさにすっかりやみつきになった。私が何かを作ると母が驚くのも、兄が褒めちぎるのも、父が残さず食べてくれるのもうれしかった。結局、小学校を卒業するまでに、学校行事に必要な弁当は自分で作ることができるまでになった。
料理に対する気持ちが微妙に変化しはじめたのは、私が料理を作ることが、当然のことと受け止められるようになってからだ。大学を出て働きはじめ、結婚適齢期に近づくにつれ、「こんな料理を作ることができるんだね」とか、「ありがとう!」という、シンプルだけれど、私にとってはうれしい周囲の言葉がピタリと止まった。実の母でさえ、おふくろの味だとか、男性を喜ばせるレシピなんて本を送ってくるようになり、私が母に対して出す料理にも、「もうちょっと甘くしたほうが男の人は好きだよ」とか、「働き盛りの男の人には塩分を多めに」とか、ことあるごとに言われるようになった。どれだけ作っても、必ず一つは課題点を見つけられる。その課題点の先にあったのは、結婚だった。あなたの料理はあなたのためではないと遠回しに言われ続けた私の心のなかで、違和感はくすぶり続けた。