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爪切男「クラスメイトの女子、全員好きでした」

ワックスの海を滑る彼女は、僕らの学級委員長

「あら、やっちまったなぁ」と私が近づいた瞬間、すっかり気が動転してしまった彼女は、思わずワックスのほうに駆け寄ってしまう。「中野さん、危ないよ」と注意する声も空しく、ワックスを踏んだ彼女は豪快に転んだ。まるでギャグ漫画のようにズッコケた。一瞬宙に浮かび、お尻からドスンと落ちて、体中ワックスまみれになった中野さん。一部始終を見ていた私は、彼女の身を心配する前に、どうにもこらえ切れなくなり「あっはっはっは」と笑ってしまった。
「あう~ あう~」と恨めしそうな声を出す中野さん。その声が面白くて私はさらに笑ってしまう。

 次の瞬間、女の子が大声で泣き出す前の嫌な沈黙が教室に流れた。これはやらかしてしまったぞと反省し、なんとか中野さんに笑ってもらおうと思った私は、瞬時に行動を起こす。

「しゅい~~~ん!」

 私は叫び声を上げながら、床にこぼれたワックスめがけてヘッドスライディングを敢行する。腹這いの姿勢で床の上を一直線に滑っていく私。まるでカーリングのストーンのような動きだった。そして、掃除道具入れのロッカーに激突して止まった後、中野さんのほうを向いて「ああ、楽しいなぁ」と笑みをこぼした。
 最初はきょとんとしていた中野さんも、やがて小さな笑みをこぼし、そのうち二人して大声で「あはははは!」と笑った。

「なんで、あなたもワックスまみれになるの~」
「いや、前から一度こうやって遊んでみたかったんだよ。雨の日とか水溜まりで遊ぶじゃん」
「でも、普通あそこまでしないでしょ」
「体操服なんて洗えば綺麗になるんだしさ」
「そりゃそうなんだけど……」
「ね、中野さんもやってみなよ。もう体中ワックスまみれじゃん。きっとよく滑るよ」
「新しいワックスもらいに行かなくていいのかな?」
「そんなことする前にちょっとだけ遊んでから行こうよ」

 私はそう言って、また腹ばいになり中野さんのほうに向かって勢いよく滑る。そして壁にぶつかりそうになった瞬間、器用に壁を足で蹴って方向転換。エアホッケーのパックのように床の上を気持ちよさそうに滑る私を見ていた中野さんも「じゃあ一度だけ」と言って、黒ぶち眼鏡を物置の上に置いて、「えい!」と控えめに床の上にダイブ。そして、私が何も言わなくても、彼女は楽しそうに床の上を何度も転がり始めた。
 外からやかましいセミの鳴き声が聞こえてくる放課後の教室に二人きり。普段はこんなバカなことを嫌うはずの学級委員の私たちが、滑って、転がって、回って、笑って、ひと休みして、また滑って、転がって、回って、笑った。
 先程までのムシムシした夏特有の匂いはもうしなくなった。今、私たちの鼻をくすぐるのはワックスの匂いだけだ。
 そして、様子を見にやってきた担任の先生に、私たちはこっぴどく叱られることになった。

「あとは先生がやっとくから、お前らはプールのシャワーで身体洗ってこい! アホが!」

 特別に許可をもらった私たちは、放課後に水泳クラブの指導をしている先生に頼んで、水着に着替えて一緒にシャワーを浴びる。私と中野さん、たった二人きりのシャワーだった。

 お互いに制服に着替えた帰り道、ふくれっ面をした中野さんが「もう! 私、先生に怒られないように今まで真面目にやってたのに、あなたのせいでめちゃくちゃ怒られたじゃん」と文句を言う。でも彼女がそれほど怒っていないのを私は知っている。「一人で怒られるより、二人一緒に怒られてよかったじゃん」と言い返すと、「それはそうかもね」と彼女は笑った。
 その日は一九九〇年で一番楽しい学校帰りだった。

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爪切男

つめ・きりお●作家。東京都中野区在住。2018年1月、『死にたい夜にかぎって』(扶桑社)にてデビュー。現在、週刊SPA!にて勤労エッセイ『働きアリに花束を』を連載中。2019年11月末に扶桑社より文庫版『死にたい夜にかぎって』発売予定。また、中央公論新社BOCにて好評を博した『男じゃない女じゃない仏じゃない』も来年書籍化予定。トークショー、物言わぬ変人役でのドラマ出演、サウナコンテストの審査員など、作家以外の活動も多種にわたって迷走中。

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