2020.1.21
絶対とは絶対言わない男〜結局いい男が好きなわけでもない話
先日、夜空の下でコーヒー飲みながら男女数人で焚き火を見るという、ちょっと素敵という以外に何の必然性もない、強いて言えばかつて緒形拳が何かいいこと言いたくなっちゃうな、と言ったのと完全に一致したシチュエーションで、その場にいた中肉中背メディア会社勤務の40代の男が如何にバランスのとれた人格者か、という話になった。
さすが夜空。別に彼はシリアで水路を作っているわけでも死を待つ人の家・歌舞伎町版を主催するわけでも不良を集めて寺で面倒を見ているわけでもなく、どちらかというと結構大衆迎合的な仕事をして大金稼いでいるのだけど、そこにいた普段からわりと世界の細かい歪さをせせこましく見つけるタイプの別の男が指摘するには、彼の人格者っぷりは人間の愚かさに太鼓判を押す一言を言わないことに現れているらしい。
彼が「絶対」を言わない理由
例えば彼が子供の頃から空手を習っていたとして、他の空手は一度もやったことのない同僚たちと一緒に結婚式の余興で型をやることになった時のこと。
圧倒的な知識・経験の優位がそこにあるため、普通の男ならここぞとばかりに「先生」となって他者を「指導」し、「アドバイス」をしたり、「教えて」あげたり、チームの「力になって」、結果自分が一番気持ちよくなるであろうところだ。なんてったって、先生となって指導してアドバイスして教えて力になるのは男の好物である。そしてこんな風に言うだろう「絶対肩締めた方が綺麗に見えるよ」「君なら絶対できるよ」「決めポーズでぐらぐら動くのは絶対だめ」などなど。
しかしその「絶対」こそ人間の弱みとなる。もし肩を締めずに綺麗な型をやる人間がこの世にいれば、彼はルーザーもしくは冷めたピザとなるのだから。
だから彼は「絶対」を言わない。
「もしかしたら肩締めたらうまくいくかも」「ぐらぐら動いくとやりにくいかもしれない」。
或いは、と先日彼と分け合って車に乗っていたという人も証言した。
別の者が運転し、助手席に座った彼が携帯を使って最寄のガソリンスタンドを探すという、最早誰の実力も誰の運も誰の立場も関係なく、彼が情報を握っているというシチュエーションで、彼はGoogleで探したスタンドにわざわざ電話までかけて営業中であることを確認。地図上にもきちんと表示されているのだから、絶対ガソリンスタンドはあるし、それを彼が最もよく知っているはずなので、逆にここでそれ以外の真実があるという場合を誰も想像できないほど強固な状況ですらあった。
しかし彼は「多分ですけど、そこ曲がったら比較的すぐにあるっぽいです」と、やはり「絶対」を回避して答えた。
「そこにこの人の偉大さはあるよ」とは前出の世界を過剰に汲み取る男の弁である。
そして焚き火を見ていることもあり、そこにいた全員が「絶対」って確かに愚かだよね、自分の知っている世界が全てだという思い上がりだもんね、圧倒的な正しさなんてこの世にないはずだもんね、絶対って自分以外のこと否定する言葉だもんね、人って相手を否定して己の正しさを主張しがちだよね、と、人間、主に自分を省みて憂いていた。
「絶対」を言わないのって、人へのリスペクトだね、双方をたてる優しさだね、そして知性でもあるね、想像力でもあるしね、と、焚き火とともに称賛の声は燃え上がり、夜空ノムコウに明らかに絶対を言わない明日が待ってるいる感じに場が熟していた。