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4大会連続の五輪後、サラリーマンに。飛び込み・寺内健が2年間のブランクが近道だったと感じる理由とは?

退職後は収入がなくなったため、祖母の家に転がりこんみ、ハングリーな気持ちで復帰を目指した。(撮影/熊谷貫)
退職後は収入がなくなったため、祖母の家に転がりこんみ、ハングリーな気持ちで復帰を目指した。(撮影/熊谷貫)

小5で単身4カ月半過ごした上海合宿で、飛び込みの魅力を知った。

30歳からのリスタート。

生半可な気持ちでやってしまったら、アイツ何やってんだとなる。ブランクもある。結果を出せなかったら冷たい視線を浴びるかもしれない。イバラの道になることは承知のうえで、彼は飛び込みの世界に戻ってきた。

練習拠点は、再び地元の宝塚に。フィットネスクラブに一般会員として入り、筋力トレーニングに励むことから始めた。収入がなくなったため、祖母の家に転がりこんだ。ハングリーな気持ちを呼び起こしていく。そして子どものころからずっと指導してくれた馬淵崇英コーチに「自分を見てほしい」と頭を下げてお願いした。

「新しいスタートを切るにあたって、違うコーチのもとで練習するとか、今までやらなかったことをやるとか、そういう考えもあるのかもしれません。でも僕は、やっぱり評価してもらうのは崇英コーチしか考えられなかった。復帰するにあたって最後にコーチに言うつもりだったんですけど、どこからか耳に入っていたようで『俺に何か言うことないんか?』とどこか嬉しそうに聞いてくるんです。復帰を伝えたら、凄く喜んでくれました。もう一度、一緒にメダルを目指して頑張ろう、と」

原点に戻る必要性を感じたのかもしれない。

競技を始めたころは、やらされている感覚だった。「競泳よりも楽しそう」と思っていたのに、小5から毎日11時間の猛練習。始めて数カ月後には、“地獄の”中国・上海合宿に連れていかれた。早朝5時からのダッシュを皮切りに11時間以上の練習がずっと続いた。崇英コーチの指導は鬼のように厳しく、顔を見ることも嫌だった。当初3カ月半の予定が、1カ月延びることになった。それも崇英コーチが先に帰国するため、一人で過ごさなければならなかった。現地のコーチも「健がかわいそう……」と同情してくれた。だが崇英コーチの目を気にしなくなったことで、逆に飛び込みの競技そのものの魅力を感じたという。

「最後の1カ月で“あっ、飛び込みってこういうものなんだな”って自分で気づいたところがあって、一緒に練習している同世代の子との触れ合いを通じて学ぶ点もありました。僕は元々、忍耐強いタイプじゃないんです。だから逃げ場のない上海に連れていかれたと思うんです。あとで聞いたら、基本的な技術を徹底して叩き込み、素晴らしい中国の飛び込みを見せるという意図だったそうです。崇英コーチには感謝しかないですよ」

小さいころ、コーチから褒められたことは一度もない。叱られてばかり。めちゃくちゃ怒られた後に、買ってもらったパンが美味しかったという思い出が今も心に残っている。熱意も、愛情も感じた。だからこそこの人についていこうと思えた。アトランタから北京まで4大会連続で出場できたのも崇英コーチを信頼してやってきたからこそ。

「基本動作を叩き込まれて飛び込みの魅力を知った、あの最初の4カ月半の合宿があったから、2年間のブランクがあってもすぐに感覚を取り戻すことができたんです。ただ当時に戻りたいかと聞かれたら、絶対に嫌ですけど(笑)」

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二宮寿朗

にのみや・としお●スポーツライター。1972年、愛媛県生まれ。日本大学卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社し、格闘技、ラグビー、ボクシング、サッカーなどを担当。退社後、文藝春秋「Number」の編集者を経て独立。様々な現場取材で培った観察眼と対象に迫る確かな筆致には定評がある。著書に「松田直樹を忘れない」(三栄書房)、「サッカー日本代表勝つ準備」(実業之日本社、北條聡氏との共著)、「中村俊輔 サッカー覚書」(文藝春秋、共著)など。現在、Number WEBにて「サムライブル―の原材料」(不定期)を好評連載中。

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