2019.2.3
ピアノの先生を夢見た“ライパチ”少年、館山昌平をプロへと導いた“観察力”
のちにプロになる“うまい同級生”のマネをすることで少しずつ成長した
だが、努力だけでは足りないと少年は考える。
僕が野球をうまくなるために――。出した答えは、「うまい人をよく見て研究する」。つまり観察力を身につけることだった。
その“うまい人”は身近にいた。
三橋直樹、のちに横浜ベイスターズからドラフト指名(2005年、大学・社会人ドラフト4巡目)を受ける右腕である。小学校ではいつも同じクラスで、仲が良かった。当時はサードを守っていた。
「本当にいつも三橋を見て、三橋をマネしていましたから」
打撃も守備も、分かりやすいお手本。と同時に、家に戻ったら連続写真が入った図解つきの野球本を穴があくほど熟読した。
「でも僕からしたら、もうちょっと詳しいのが欲しかったんです。6枚の連続写真で並べてあっても、たとえば①と②の写真の間がどうつながっているのかを知りたかった」
見て、考えて、イメージする。
ちょっとずつうまくなっていく実感を持つことができるようになる。
小学6年でキャッチャーを務め、中学でも三橋とともに軟式野球部に入った。センターとキャッチャーが自分のポジションになった。ピッチャーもやっていたが「3、4番手」。知れば知るほど野球が好きになっていった。
運命の“ひと言”が待っていた。
3年生になってから試合の視察に訪れた日大藤沢野球部・鈴木博識監督(当時)から声を掛けられたという。
「ピッチャーをやってみないか?」
耳を疑うとともに、その言葉が耳を離れなくなってもいた。日大藤沢は1995年に夏の甲子園に出場し、県内屈指の強豪校として知られていた。
中学では県大会にも出ていない自分の野球レベル。高校進学では2つの選択肢で悩んでいた。1つ目は進学校として知られる厚木高校に進むこと。憧れは、8つ年上の川村丈夫。厚木高から立教大に進学し、東京六大学リーグで活躍していた(のちの1996年ドラフトで横浜ベイスターズ1位逆指名)。憧れの人と同じ道をたどる、とは到底思っていないものの、勉強に部活に一生懸命やれるという期待感はあった。
2つ目は日大藤沢でピッチャーにチャレンジする選択。しかし繰り返すが、本格的にピッチャーをやったことはない。
館山少年は考えた。将来どうありたいか、を。結果、いや、それよりも「ベンチに入って県大会に出たい」思いが強いことに気づかされた。TVKで観て、手に汗握った高校野球。そこに出ることが、一番の目標になっていた。ここで思い切った決断を下すことになる。
「もしベンチに入ることができるなら、ピッチャーのほうがいいんじゃないかって考えたんです。日大藤沢は約100人の部員がいて、厚木は50人ほど。キャッチャーなら(ベンチ入りは)2人だろうけど、ピッチャーなら4人ぐらい入る可能性があるなって。だったらどっちの道に進もうが、結局、同じじゃないかと考えました」
難しいとは考えない。逆にチャンスだと考える思考法。
未開拓のピッチャーなら、自分も知らない伸びしろがあるのかもしれない。
普通なら尻込みしてもおかしくないところで館山少年は一歩引くのではなく、一歩前に出ていった。
日大藤沢との出会い、そして松坂との出会い。
「ピッチャー館山昌平」の物語がここから始まっていく――。
(第2回に続く)
profile
たてやま・しょうへい/1981年3月17日生まれ、神奈川県厚木市出身。
東京ヤクルトスワローズ投手。日大藤沢高校、日本大学を経て2002年、ドラフト3位で入団。2018年までの記録は85勝67敗10セーブ24ホールド。通算防御率3.31。
最優秀勝率(2008年)、最多勝(2009年)などのタイトルにも輝く。
一方で、2004年の右肘内側側副靱帯再建手術(トミー・ジョン手術)などケガに苦しみ、現在まで9回の手術も経験している。
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