2024.1.23
長崎の母のもとから京都へ 第1回 朱墨写経の旅
具体的で有益な情報と旅心を刺激するエッセイが旅渇望者の心を摑み、2023年3月発売後、版を重ねすでに11万部に。
食へのあくなき探求心はもちろん、好奇心にあふれる料理研究家の山脇りこさんが、
訪れるほどに深みにはまるという関西、西の都を案内します。
イラスト/丹下京子 写真/山脇りこ
第1回 朱墨写経の旅
余白を求めて、長崎から京都へ
「またすぐ帰って来るけんねー」といつものように、できるだけさりげなく玄関口で言う。母の微笑むような泣き出すような顔は見ないように、ぎゅっと目をつむり、ドアを閉め、私は長崎駅へ向かった。
母は、私にもひたひたとしのびよる老いの先生だ。老いは、坂道を単調に下りるようにではなく、いくつかの踊り場を経ながら、時に急に、確実にすすむと教えてくれる。老いに抗えたと思ったのもつかの間、やはりまた弱っていくのよ、かなしいよ、と。
生徒の私は、それでも抗いたくなる。できなくなったことを数えずに、諦めずに抗おうよ、がんばろうよと母に言ってしまう。きっと母はもう十分がんばっているのに。
無力感、いらだち、胸騒ぎ、悲しみの予兆、深まる愛、焦り、ごちゃまぜ、ドロドロになる。しょっぱさだけ残る冷めたちゃんぽんみたいだ。
毎月母に会うため長崎へ帰り、数日を過ごしてから東京の日常に戻るためには、余白のような一日が必要になっていた。娘でも妻でもない、私とふたりだけになる時間が。そうして長崎からの帰り、一日、時には半日だけ、どこかに寄るのが私の習慣になった。
夏の終わり、京都に寄ることにした。5時間強の列車の旅だ。
私とふたりきりになる
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京都に寄る言い訳のようにひとつだけ入れた仕事を午後4時には終え、岡崎にある大好きな自然派中心のワインショップ「エーテルヴァイン」へ。
そもそも店でのひとりごはんは大の苦手だし、この日は輪をかけて、どうにもこうにも、どの店にも行きたくなかった。他人の声が聞こえるのさえ耐えられない。とにかくひとりになりたい。
それで、この店の最高の自然派ワインラインナップの中から直感で1本を選んで、部屋で飲もう!と。たとえ飲みきれなくても、ボトルを開けてやる、と意気込んで選んだのは、京都が本拠地のインポーター、ディオニーさんのガメイ(ボジョレー地区に多いブドウの品種)の1本。
ここから烏丸御池近くのホテルまでプラプラ歩く。途中、寺町通の「村上開新堂」で夏だけのオレンジゼリーとロシアケーキの中で一番好きなチョコを調達。同じ寺町通の「末廣」で鯖寿司ハーフサイズを買い込んで、ホテルの部屋へもどった。
はあ、とひと息つきながら、コップでワインを飲み、こんなことをしているくらいなら、もう一日長く母のもとにいればよかったんだと、ほんとうははっきりと見た、母の泣き笑い顔を思い出した。
ふと、東京に帰る前に写経に行ってみようと、ある寺が頭にうかんだ。前々から、そこでいつか写経をしてみたいと思っていたのだ。
今なんじゃないか?
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