2024.9.18
入社初日に「辞めたい」……『まじめな会社員』作者がとある銀行のOLだったころ 第17話 ふまじめな会社員
『まじめな会社員』で知られる漫画家・冬野梅子が、日照量の少ない半生を振り返り、地方と東京のリアルライフを綴るエッセイ。
前回は、冬野さんの厳しい就活模様が描かれました。
とある金融機関の内定をもらい、無事社会人としての生活が始まりますが……。
(文・イラスト/冬野梅子)
第17話 ふまじめな会社員
入社初日から辞めたいと思った。いや、実を言えば内定式の時点で辞めたいと思っていた。10月1日の内定式は都内にある支社で行われ、9割以上が女性だった。ネットで得た情報では、3年以内に半数が辞めるため大量に採用するらしい。すでに内定式の時点で辞退の申し出が多数あったという噂も聞いた。ああ、辞めたい。辞めたい気持ちがずっしりと重い。けれど、その年は内定取消も多く、身近には再び就職活動に放り出された学生もいたので、むしろ内定取消にならないだけありがたいのだ。ひとまずそうやって気持ちを静めてやり過ごした。
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入社後は1ヶ月ほどの研修から始まった。研修は都内にある施設で行われ、毎日スーツで出席し、座学で1日中授業を聞く。社会人のマナー講座、この会社の成り立ちやグループ会社との関わり、銀行業務の基礎、保険という商品のあり方など、どれも知って然るべき内容なのだろうが、眠気が襲って来る。ああ、これから何十年も毎朝7時には起きる生活なんて……。今頃他の、こんなゆるくない会社に就職した子たちは9時に出社して、なんなら夜10時までも働いているかもしれない、みんなすごいなあと、早くも抜け殻のような私は思う。
当時の私は精神的に板挟み状態だった、こんな会社早く辞めたい、けどすぐ辞めたら履歴書を汚すことになって再就職なんか無理だ。実家に帰りたくない、けど両親に何かあったら帰るしかないのではないか、その時再就職しやすいのはこの職種だろう……そんなことをぐるぐる考え身動きが取れなかった。そんな小物な自分が嫌だったが、就職先に金融機関を選ぶ人たちは大体同じような理由でここにいる。私ほどネガティブな人はいないが、将来子供を持っても復帰しやすそうだからとか、仮に夫の転勤があっても地方の金融機関でパートができそうとか、明るく答える人がほとんどだ。ここにいる人の多くは、庶民的で親しみやすい雰囲気を作法のように身につけている。角が立たない、警戒されない、悪目立ちしない私たち。その中にも、自虐に近いジョークを言いながら茶化し合う田舎のオバチャン系は点在しており、その身も蓋もない話をする輪が私の居場所となった。同質な人の集まる空間は、変に焦ったり刺激されたりしないのが心地いい。でも、ここにいたら本当に創作のことなど忘れてしまいそうで、悲しい。
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そんな場所に、意外にも美大卒の子がいた。彼女は小柄で華奢で男の子みたいなショートカットがよく似合う、いい意味で浮いた子だった。もうすぐ結婚するらしく、配属先が決まる頃には苗字が変わっているのでどうすればよいか、と研修初日の教室で人事に相談していたので注目を浴びていた。俗世間の空気に触れずに生きてきたような、ふんわりしたマイペースな雰囲気と透明感のせいだろうか、派手さがないのに人目を引く。彼女は、私たちが主婦の井戸端会議みたいな小競り合いをしていると、本当に不思議そうなキョトンとした表情を見せた。“普通の人たち”を見るのが初めてなのかもしれない。でも、あの澄みきったくりくりした瞳で観察されると、動物園のゴリラにでもなった気分になる。美大を出て、この“女性が働きやすい職場”に来るのはやはり、彼女の人生のメインロードは明らかにアートにあり、この仕事は生活費を稼ぐ手段なのだろう、それ以外考えられない。べつに私だってそのつもりで働けばいいのだが、浮世離れした彼女を前にした後では本物とまがい物の差が一目瞭然である。この時、私の「創作をしなくなったらどうしよう」なんて不安はお笑い草であると確定した。
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配属先は、二つの駅に挟まれた繁忙店だった。正しくは、この地区に配属された私と男性社員のうち、私だけが正式な配属先が決まらず、ひとまず忙しい支店で預かる形になったのだ。おそらく、人事の判断からも私は“辞めそうな子”だったのだろう。有望な人材は辞めないようにいい環境でハードすぎない仕事を与え大事に育てると聞いたことがある。私は繁忙店で慌ただしく過ごしながら、月の半分は住宅街にある小さな支店に行き、そこで仕事を教えてもらうことになった。どの支店も支店長以外はほぼ女性で、防犯の観点から他に1名男性がいた。思っていた通り、みんな穏やかで優しい。内心では5分おきに「辞めたい」と呟きつつ、ここならやっていけそうだと安心もしていた。当時、大学4年で知り合った彼氏とも付き合い続けていたし、ゼミでは男女ともに仲が良かったが、自分が男性の集団に受け入れられるとは全く思えなかったのだ。男性の集団には特有のノリがあり、彼らの台本に書かれた役に忠実じゃないと輪に入れないイメージがある。女性であれば、女子アナか女子マネ、みんなの母ちゃん、といった役だろうか。そもそも初対面の人と話すことすら苦手なのに、“異性のノリ”を掴むなんてあまりにハードルが高い。そんな私には、やはりこの“女性が働きやすい職場”しか居場所がないのだ。
とにかく目をつけられずにひっそりとやっていこう。ひっそり地味に、無事1日を終えることだけが目標だった。私が新社会人として最も恐れていたことは、イジメなどでメンタルを崩して社会人生命が終わることだった。再現ドラマや「発言小町」なんかでもその手のお悩みはよく目にする。だからなるべく、服装も発言も地味で真面目そうなものを心がけ、辞めたい雰囲気を感じ取られないよう気をつけた。逆境に負けないことよりも、逆境に立たされないことが大事だ。かといってフレンドリーにしすぎるのも良くない。私は早く帰るためにここで働いているので、手取り16万ちょいで残業しては意味がないのだ。それに、辞めたさを隠蔽して働いているので、社内の誰にも心を許せない。だから飲み会には絶対参加したくなかった。
それなのに、最初の試練が6月に訪れる。指導係の山田さん(仮名)に暑気払いに誘われたのだ。山田さんは20年以上勤務するベテランの女性上司である。暑気払いがなんなのかわからなかったが、こういうのは最初が肝心なので“飲み会に参加しないキャラ”を確立すべく、勇気を出して断った。案の定、気まずい空気が流れる。ただでさえ山田さんは几帳面な性格で、新人の指導をきっちり行いたいタイプなのに、こんなに心を閉ざした新人に当たってしまって気の毒だ。後から知ったことだが、「冬野さんが心を開いてくれない」と他の社員に相談していたらしい。結局、私の歓迎会も兼ねているからと念を押され、渋々参加した。幸い、ごく普通の飲み会でホッとしたのを覚えている。