2021.12.24
一度は離婚したタクシー運転手の夫と再婚したわけ
〈日車営収5万3311円〉が意味するもの
その日の深夜、久しぶりに北光自動車交通の事務所を訪れ、豊田康則に会った。
タクシー適正法・活性化法の施行(2009年10月)から先、東京では、業界をあげてタクシーの減車に取り組みはじめていた。けれど、北光自動車交通は、減車の対象となるのは「保有する営業車両が40台以上」と決まったおかげで、最終的には、業界のこの動きに関しては蚊か帳やの外にいることができた。北光の3代目、武藤雅孝は、そこに事業拡大への道を見つけている。御法度の増車ではなく、おりからの不況による業績不振で廃業の道を選んだ小規模の同業者を買い取った。増車とは別の方法で事業規模を拡大したのだ。そうして10年後、営業車も運転手も、その数は当初の2.7倍以上になり、震度5の地震を考えたくもなかった手狭な事務所での仕事は新社屋に場所を移すまでになっていったのだった。
2019年12月13日、日銀は「大企業・製造業が4四半期連続で悪化」と短観を発表するのだが、その日の夕方のニュースは、日経平均株価の終値が今年最高値の2万4032円をつけたと報じていた。米中の貿易協議が大筋で第一段階の合意に達しただの、イギリスの総選挙で与党保守党が過半数獲得の勢いでEUからの「合意なき離脱」への不安が和らいだだのが背景にあるのだという。景気は後退しているのか、それとも杞憂なのか、素人判断を下すには難しそうなふたつの相反する報道だけれど、いずれにしても、タクシーの日車営収が大幅に落ち込む気配はない。東京タクシーセンターの発表によれば、2009年に4万1148円にまで落ちた日車営収(年平均)は、2017年に5万円台にまで戻し、2019年3月のそれは5万3311円にまで上がってきていた。この数字は、怠けずに仕事をしてさえいれば、誰でも彼でも、月の水揚げが「少なくとも65万円になる」を意味していた。松や竹の運転手がその気になれば、80万でも90万でも、もしかすると100万円だって可能かもしれない。日車営収5万3311円には、そういう意味がある。
日付が12月15日に変わる直前の、土曜日の深夜である。豊田康則は、4つ並んだ事務机の端に何やら書類の束を載せ、この日も夕方からの宿直業務に入っていた。彼は、定時制の運転手として週に一度か二度の乗務をこなし、週末は事務所で寝ずの仕事に就く生活をいまも変わらず続けている。変わったことといえば、会社の規模が大きくなったのと2013年5月に私がタクシー稼業から完全に引いたのを別にすると、工場長の中邑裕貴が運転手を降りて車両管理に専念するようになり、あとは、豊田康則の名が、香織と復縁して藤枝康則に戻ったことくらいだろうか。
「おりか家でランチを食べたよ」
声をかけると、例の破顔を向けた彼が、「うん、香織から聞いた」と応えた。
白木のカウンターに置かれた水揚げランキング表のいちばん上は、12月13日、金曜日のもので、時節柄、売上げは、全体として2割から3割増しと見なければならないにしても、営業にでた85人の運転手のうち、上から数えて10番目までが9万円を超えているのには驚いた。藤枝康則の名は31番目にあって、売上げは隔勤なみの6万7410円。ナイトの運転手20人のなかではトップの数字である。山中修と磯辺健一も6万5000円を持って帰っていた。
「リーマンショックで最悪だったあの頃とは、いまは世の中の状況がぜんぜん違う」
藤枝康則はそう言った。
(以下、次回に続く)
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