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「タクシーは鏡みたいなものだ」ベテラン運転手から見える日本の姿

「フロントガラスの向こうに日本が見えてる」

「最近、早いんじゃないの」と、磯辺は、思いだしたように私の早朝出勤のわけに話を振った。7時をだいぶ過ぎてからでないと出勤してこない私が、ここのところ6時前には会社にきているのは賃率が変わったせいだった。

 リーマンショックからこっち、水揚げの落ち込みに歯止めがかからず、北光自動車では運転手の難儀を救済する措置として足切り額を3万円に下げていた。ところが、去年暮れにきて日車営収が4万9775円にまで回復し、ならば、と、足切りを従来の3万3000円に戻したのだ。実のところは、回復したのではなく、日車営収が5万円近くにまで上がったのは、12月だったからである。前の月(2012年11月)のそれは4万5169円だし、年明け1月は4万3270円に逆戻りしている。それでも足切り額は上がった。一日の稼ぎが足切りに届かず、それが実働14時間未満での結果だと、その日の仕事は欠勤扱いで、運転手の取り分は30パーセントにしかならないという意味である。この、隔勤の足切り変更に続き、日勤の賃率も変更されている。これまでは水揚げ40万円で60パーセントだった運転手の取り分は55パーセントに下がり、60パーセントをもらうには月の水揚げが45万円なければならなくなった。わずか5万円の差だが、これが、でかい。隔勤やナイトでなら水揚げ80万円だってできなくはないが(私には無理だが)、昼勤は、腕がそこそこよくたって、このご時世ではせいぜい50万円。1万円を超えるロングの客を1乗務のうちに何度か乗せて形勢逆転、みたいなラッキーは昼勤では転がり込んでこないから、最大で25乗務できたとしても、平均2000円の水揚げアップには早朝の客を狙うしかない。それが6時前出勤の理由だった。日本武道館で日大の入学式が、東京女子医大で看護学校の入学式があったのを通りがかりに目にしたのは2日前である。その日は都内のあちこちの学校で入学式があったようで、それらしい親子を何度も乗せることができたおかげで水揚げは2万8570円(税込み30000円)、122キロ走って実車率は51パーセントを超えていた。このペースなら隔勤なみの水揚げ70万円だが、きのうは126キロ走って1万8050円。実車率は31.75パーセントである。日報の端に「今日も、びっくりするほどヒマ。円安も株価1万3000台も、タクシーまではまわってこない」と書き込んだ日にいたっては、105キロしか走れずに、実車率はわずか20パーセント。水揚げは9320円でしかなかった。

 去年までほとんど9000円台で推移していた株価は、今年に入って半年も経たないうちに1万3000円台をつけるところまでに上がっている。アベノミクス効果だとか円安が進んだせいだとか新聞は書いているが、運転手には日車営収が回復傾向にあるとの実感がまるでない。それを指して「タクシーがだめなうちは、まだ本物じゃない」と磯辺は言った。生来の性分のせいか、あるいはタクシー業界に身を置いた時間の長さに等しい事情通のせいか、磯部の言いようは、自分の身に火の粉が飛ばないのを承知の評論家が残酷な現実を冷徹に語るかのようでもある。

 タクシーは「鏡みたいなものだ」と磯辺は言った。タクシーは車窓に世の移り変わりを映し、そのなかで翻弄される人の姿を映していると磯辺は言った。

「新入りの山中修にしても、豊田さん、あんたにしてもそうだよ」

「極端に言ったらさ、フロントガラスの向こうに日本が見えてるんだと俺は思うよ」

(以下、次回に続く)

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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