2021.11.17
「もっとたくさん作りたいのに……」減反政策で棚田が荒れて苦悩していた57歳タクシー運転手の過去
国の減反政策
ひとりの農業従事者としては、米を作るにしても野菜を育てるにしても、その腕は他人より優れてはいても劣ることは決してないとの強い自負がある。では、農業経営体の経営者としての才覚はどうなのか。3町5反と広大な山林を引き継ぐことになった時点では想像してみたこともないけれど、かと言って、自民党の農政に任せておきさえすれば農業はこれまでどおり安泰と吞気を決め込んでいたわけでもない。農業技術の向上は米の収穫量を増やしてきたが、しかし、その一方では、食生活の変化によって米の需要は伸びなくなっている。時代が、農業をめぐる状況を変えようとしているのかもしれない。結婚した年に起きた「米穀通帳の廃止」の意味を、そう受けとめる彼だった。
1970年から始まった国の減反政策はこの時点でも続いている。そもそもを言いだせば、話は1967年(昭和42年)の、かつてない大豊作に遡り、その年の米の収穫量は前年比170万トン増の1445万トン。天候に恵まれた結果だといわれたが、翌年もほぼ同量、翌々年は天候不良が続いたにもかかわらず、それでも1400万トンを超える大豊作だった。すると、均衡していないと何かと不都合が生じる米の需給は生産過剰となり、1970年には過剰米の量が720万トンにも達してしまったのである。三年続きの大豊作は食管制度*1の土台を揺るがすことになった。国が高く買い上げる生産者米価と安く売り渡す消費者米価との間に生じる価格差が一挙に膨らんで、財源である食管会計を圧迫、他方、大量の過剰米は活用の見込みがないまま保管され、そのための財政負担も拡大していったのである。国が本格的な減反政策に踏み切るのは、その翌年、1970年のことだった。
彼にしてみれば、いや、彼に限らない米農家にしてみれば、減反に対する心情は複雑だった。彼が香織と結婚する四年前、彼らとは縁もゆかりもない、峰田から900キロ以上も離れた山形県で農業に従事する星寛治が、自らの体験を綴った『鍬の詩』(ダイヤモンド現代選書)を上梓している。そのなかで、星は、減反政策を知ったときの気持ちを「まるで青天のへきれきのようなことであった」と書いた。そして、こう続けていた。
「それは信じられないことであった。米一粒でも多くとることが農民の生きがいであり、美徳であり、惰農は人間失格につながっていた」
「作るな、田を荒らせ、そうしたら奨励金をだす、という発想は、農民の倫理とは無縁な、どうしても理解しがたい権力的なものに思えた」
心情は彼も同じだった。本心を言えば減反なんてしたくない。美味い米をたくさん作り、次の年は、もっと美味い米を、もっと作りたい。その思いが米作りの腕を磨き農業技術を向上させるのだと彼も知っている。減反政策はそれを邪魔していると思う。けれど、米余りに伴う米価の値下がりを防ぎ、農家を守っていくとする国の方針を受け入れた農協に説得されたら、否も応もなかった。農協には逆らえない。農協に逆らうなんて、自分から〝まずい事態〟に飛び込むようなものだ。それがわかっているから「減反は嫌だ」と声を張り上げることはできず、彼の2町7反の棚田は、少ないときでも3.5反、多いときには6反の減反をしなければならなかった。
稲の苗を植えなければ田の土が荒れる。それを防ぐため、代わりに大豆やトウモロコシの種をまく。3週間もすれば芽がでてくるけれど、奨励金を得るための捨て作りだから手はかけず、そのまま放置しなければならなかった。減反農家には減反補助金とか転作奨励金の名目で1反当たり合わせて3万円ほどが国から支給されていたのだ。1反から収穫できる米は6~7俵、金額にして12万円前後になるが、苗や必要な肥料の代金に4万5000円はかかっているから差し引き7万5000円、さらに、収穫までにかける膨大な手間を考えると、支給される3万円は不当に悪い額ではない。だから、それはそれで有り難いとは思うけれど、捨て作りなど百姓にしたらもってのほかだし、言われるままに減反するのは、やはり多少なりとも抵抗があった。時代劇に登場するしたたかな農民たちは、年貢の取り立てに厳しいお代官様の目を盗み、森の向こうの隠し田で自分たちが食う米を作っている。同じことをした。減反をしたことにして補助金を受け取り、その実、視察の目が届かない棚田の端で稲を育てた。〝ずるい気持ち〟がそうさせたというのが正直なところだが、それだけではなかった。権力に抗う、などとたいそうな思いではないにしても、否応ない減反への少しばかりの反抗心もあったのだ。隠し田から収穫した米は、自主流通米として別府の温泉ホテルに売って現金に換えた。彼だけでなく、彼の知る農家の何軒かは、同じようにして現金を得ていた。
(以下、次回に続く)
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