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「夜は国会裏で無線待ちしろ」バブル絶頂期の先輩タクシー運転手の教え

「運転手さん、ちょっと遠いんです」

 前日から予約が入っていた客を羽田空港まで送り届けたのが午前10時ちょうどで、いつもなら1時間待ちは覚悟しなければいけない空港での付け待ちだが、どうしたわけだか30分も待たずに西新宿のヒルトン東京まで外国人客を乗せることができたのはラッキーだった。無線で呼ばれる上客を別にすれば、ロングの客ばかりを選んで、とはいかない昼の時間帯ではあるけれど、それでもとんとんと悪くない客が乗ってくることがたまにある。この日がまさにそうだった。いきなりの羽田往復。こういうときは昼間から水揚げが伸びると相場は決まっている。客を降ろしてホテルをでたところで乗せた会社員ふうのふたりの男の行き先は東京駅までだったし、丸の内からは、とんぼ返りする格好で新宿の伊勢丹までの客を乗せた。まだ昼飯前だというのに、この段階で、水揚げはもうすぐ2万円に届きそうなところまできていた。

「京橋10分から15分」

「京橋10分から15分」

 無線から流れたオペレーターの声で目を開けた。

 飯田橋でランチを済ませ、タバコ休憩のために北の丸公園の端でクルマを止めたのが14時ちょうど。夕方から誰かのコンサートでもあるのか、少しだけ年齢層が高そうな、30歳代くらいの人たちが日本武道館に向かって歩く姿が途切れない。武道館の屋根のてっぺんにある擬宝珠を玉ねぎになぞらえた、爆風スランプの『大きな玉ねぎの下で』のメロディが浮かんでくる。いつものことだが、ここにくると、出会ったばかりの頃のエリカが、カーラジオから聞こえてきたこの曲を「古くさい歌詞だけどつい聴いちゃうよね」と言った、あの瞬間の空気感が蘇ってきて、頭のなかで勝手にメロディが鳴りだすのだ。

 目を瞑って「九段下の」と歌詞をなぞっているうちに眠くなり、いい気分になったときに鳴った無線だった。

 磯辺は「10分から15分」の「15分」に反応し、マイクを握って「イチサンゴーゴー、竹橋」と返した。月曜日の午後、少し余裕をもった「15分」に〝もしかすると意味があるのかもしれない〟の直感が、咄嗟に反応したのだ。たいていは考えすぎだが、ときとして大当たりを引く。このときがそうだった。

 無線が指示したのは京橋の、中央通りを少しだけ昭和通り側に入った路地の角にある画廊だった。磯辺のクルマがそこに到着するとすでに客と思しき3人が店の前にでていて談笑していた。紺色のスーツ姿の中年の男は画廊の人間で、茶色のジャケットを着た高齢の男と、その連れらしい女、おそらく夫婦だろうが、磯辺のタクシーに乗るのはこの二人に違いない。

「運転手さん、荷物、助手席にお願いします」

 スーツ姿の男が言い、段ボールで梱包された平べったい四角の荷物を磯辺に渡す。聞かずとも、画廊から搬出された絵画の類であるのは想像がつく。3人の会話から、高齢の夫婦がこの店で購入した絵をタクシーで持ち帰るのだとわかった。

「運転手さん、ちょっと遠いんです。長野県の松本市までなんですが、大丈夫ですか」

 大丈夫も何も大歓迎の長距離仕事だが、磯辺はいつものポーカーフェイスで「はい」とだけ返した。

 東京から松本までの距離は240キロ。タクシーなんかを使うより新宿から特急列車に乗れば二時間もあれば着いてしまうだろうに、そうしないのはよほど高価な絵だからだろうか。宝町入口から首都高に乗り中央自動車道で松本を目指す。それでいいでしょうかとルートを確認し、途中で休憩を入れても4時間もあれば目的地に着く旨を老夫婦に告げた。首都高を走りだしてからも、茶色のジャケットを着た夫がずっと笑顔のままでいるのが印象的だった。

 意外だったのは彼らが購入した絵の値段である。

「安物のリトグラフなんですよ。買値は松本までのタクシー代と同じくらい」

 談合坂のサービスエリアで休憩したとき、よっぽど高価な絵なんでしょうねと尋ねた磯辺に、「いやいや」と顔の前で右手を振り「安物ですよ」と答えたのは夫で、妻は笑顔のまま黙って頷いた。「運転手さんも見ればわかる」と夫は言い、購入したのはジャック・デペルトとかいうフランスの作家の作品で、数が多くでまわっているからいちどくらいは目にしたことがあるはずだと続けた。そして、「妻が大好きな作品だから、彼女の73回目の誕生日プレゼントに買い求め、ついでに少しだけ贅沢のつもりでタクシーで帰ることにした」のだとこの日の事情を話すのだった。

「さっきまで右に見えていたのが大菩薩嶺。大菩薩峠って聞いたことあるでしょう。あの大菩薩。そこから続いているのが甲武信ヶ岳、で、向こうに見えてきたのが八ヶ岳。山に興味がない人にはわからないでしょうけど、左側にずっと続いているのが南アルプスなんですよ。ここからでは見えないけれど、まだずいぶん雪が残ってるの」

 絵画だけでなく、夫婦そろって山登りが好きだとふたりは言い、車窓から見える周囲の山の名を説明してくれるのだが、その様子が、この夫婦のいつもの生活ぶりを現しているように磯辺の目には映った。

 諏訪湖のサービスエリアで二度目の短い休憩を挟み、松本市内のふたりの自宅に着いたとき午後六時を少しだけ過ぎていた。料金メーターが表示したのは、高速料金を含めて5万6300円。奥さんは7万円を磯辺に渡し、リトグラフと南アルプスの話をしてくれたときと同じ笑顔のまま「少しだけど帰りの高速道路代と食事代の足しに」と言葉を添えるのだった。

(以下、次回に続く)

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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