よみタイ

「夜は国会裏で無線待ちしろ」バブル絶頂期の先輩タクシー運転手の教え

待ち時間だけで8000円

 靖国神社のすぐ横に日本交通のハイヤー部門の営業所があって、だからというわけでもないのだが、磯辺健一は、決まって靖国神社の境内を横切っている道路の端に営業車を止めて休憩するようになっていた。

「靖国神社、5分」

 無線が鳴ったのは夜の8時を過ぎた頃である。

 いつものように富士見町の定食屋で夕食を済ませ、回送のままいつもの休憩場所に直行し、シートを倒して10分もしないうちに鳴った無線だった。

「靖国神社、五分」

「靖国神社」

「靖国神社、5分から10分」

 もう少しだけ休憩していたかったが、オペレーターが「靖国神社」を4回繰り返したところで磯辺はマイクを握り、自分の無線番号1355を告げた。

「イチサンゴーゴー、靖国神社」

 オペレーターが指定したのは英国大使館の裏手にあるホテルみそので、走りだして5分とかからずに現着するや、待ってましたとばかりに3人の中年の男が姿を現した。行き先は六本木だというから料金はせいぜい1500円くらいのものだろう。休憩を切り上げてまで受ける仕事ではなかったと胸のうちで苦笑したが、ま、こんなこともあると割り切って走りだす磯辺だった。

 客どうしの会話は聞いていないふりをするのはタクシー運転手としての基本だとはいえ狭い車内だ、嫌でも会話は耳に入ってくる。助手席に座ったのは熊谷組かあるいはその関連会社の社員で、後ろの二人は取引先の担当者のようだ。ホテルみそのに入っている料亭で食事を済ませ、これから六本木に繰りだしていく。そんなところらしい。後ろの男が帰りのタクシーの心配を口にしたのは溜池の交差点を過ぎたあたりである。

「捕まるかね、タクシー」

 これから六本木で飲むとなると店をでるのは12時前後、もっともタクシーを捕まえにくい時間だし、いかに日本交通の単独チケットといえど、無線で呼ぶのだって難しい。そんな話をしているうちに助手席の男が磯辺に言いだした。

「運転手さん、このクルマ、待っててもらうこと、できるかな」

「メーターは入れたままでいいから12時までどこかで待っていてもらいたいんですよ。三軒茶屋でひとり降りて、次は横浜、最後は鎌倉なんだけど」

 男は財布から抜きだしたタクシーチケットと1万円札を磯辺に渡し、そう言った。このやりとりから3時間後、磯辺は3人との待ち合わせ場所である六本木警察署の前に向かっている。いったん彼らを降ろしてから再び靖国神社の休憩場所に戻り2時間半ほどそこで待った。この間も料金メーターは動いていて、待ち時間だけで8000円近くになっている。約束の12時の時点ですでにメーターは1万3000円を超えているから、第三京浜を経由して朝比奈インターチェンジで高速を降り、鎌倉駅の近くまで行ったら料金は3万円を超えることになるだろう。

異常なタクシー不足

 胸のあたりにスパンコールをあしらった黒いジャケットとおそろしく丈の短いタイトのミニスカートは、いつだったかエリカが言った「商売道具のヴェルサーチ」だとブランド物には縁が薄い磯辺健一にもすぐわかった。仕事着だからプライベートで着ることはないという黒いスーツに真っ赤なピンヒール。麻布十番のマハラジャにでも繰りだしそうな恰好をしたエリカの姿を見るたびに、まだ高校生だった時分、週末の夜に通いつめた歌舞伎町のディスコ、カンタベリーハウスの風景を思いだす磯辺なのである。

「ブルーラインタクシーって何台くらいあるんだろうね。専用乗り場で待ってもぜんぜんこないんだけど」

 待ち合わせた日枝神社の鳥居の横で磯辺の顔を見るなり「先週の金曜日の夜なんて散々だったわよ」と、仕事着姿のエリカがタクシーの少なさをひとしきり訴える。彼女の店から赤坂見附にある専用乗場まで歩いたら10分近くはかかるだろう。そこでタクシーを待つ長い列に並んで一時間、その間にやってきた空車はたったの七台で、しびれを切らした彼女はもういちど店に戻って時間をつぶしたというのだ。一度や二度ならまだしも、週末のたびにこれではたまらないとエリカは言い、「よっぽど健ちゃんに迎えにきてもらおうかと思ったわよ」と話をまとめたのだった。

 ここ2年ほどの夜のタクシー不足は運転手の目から見ても異常だと思う。11時半を過ぎたあたりから深夜の1時半くらいまでの時間帯は特にひどい状況で、週末は言うまでもなく、繁華街の大通りはウィークデーでも空車を待つ人で溢れ返っている。なかでも赤坂界隈の状況は銀座、六本木、新宿と並んで最悪で、8年前の火事で廃屋となったままのホテルニュージャパン跡あたりを真ん中にして、赤坂見附から溜池交差点の向こう側まで空車を求める人の姿が途切れない。それをいいことに、中小のタクシー会社の運転手のなかには、どこに行くにも倍メーターだとか銀座から赤坂まで5000円だ1万円だとやっている連中もいて、彼らに言わせると、客との阿吽の呼吸で金額が決まるのだという。それを得意気に話す同業者に、大昔のたちの悪い駕籠かきじゃあるまいしと磯辺は呆れている。こうした事態がまかり通ってしまうほどのタクシー不足。それを少しでも解消する目的で、タクシー事業者で組織する東京乗用旅客自動車協会は去年の11月から夜間だけ走る3500台ほどの営業車をブルーラインタクシーとして稼働させているが、それが都内の11か所の繁華街に分散されるのだから数は知れている。エリカが利用するベルビー赤坂前に設置された専用乗場に割り当てられているのは180両。週末の深夜には焼け石に水も同然の数だ。

 ブルーのラインをあしらったボディカラーだからブルーラインタクシー。そのネーミングが「見たまんま」だとエリカは笑う。運転手の過労死が問題になっている時期でもあり、磯辺の職場では労働組合がこの新たな輸送形態の導入に反対の立場をとっていたが、いざ、蓋を開けてみたら、夜間専門で走るために増車された50台ほどの営業車を担当したがる運転手が多くいた。上がり続けている日車営収*2はここのところ5万4000円を大きく超えているが、ブルーラインタクシーが走るのは稼ぎどきの時間帯だ、水揚げは夜だけ走っても軽く4万円を超す。夕方から走りだす半勤だから、乗務数は月に11~13勤する隔勤(隔日勤務)の倍、25勤として月の水揚げは100万円になる計算だ。週に5日間の勤務が続くとはいえ、朝から翌日の明け方まで18時間も拘束される隔勤に比べれば体力的には楽だし、それでいて隔勤で8万円を水揚げするのと同じ額を稼げる。乗りたがる運転手が多いはずである。

「健ちゃんも夜専門で乗ったらもっと稼げるんじゃないの」

 磯辺の営業成績は東京のタクシー運転手の平均をはるかに上まわり、社内でも上位の部類にランクされている。それを承知のエリカは冗談めいた口調で言い、彼女の言葉に、磯辺は軽く「ハハハ」と笑って「そうだな」と返した。

 新宿にしたってブルーラインタクシーの数はまったく足りていない。あの地域には3か所の専用乗場があって、そのうちのひとつ、靖国通り沿いの龍生堂薬局前には400台を超えるブルーラインが割り当てられている。運転手は、一晩のうちに少なくとも二回はこの乗場から客を乗せる決まりだ。最終電車の時間を過ぎた深夜には、そこでタクシーを待つ人の列が20メートルも続くのは珍しくもなくて運転手にしてみれば楽な仕事だが、それでも、ブルーライン以外の空車のタクシーは、まず、ここにやってこない。並んでいる客を乗せたところで行き先は中野か高円寺、せいぜい荻窪と相場は決まっている。それよりも中心部まで戻って客を拾った方が割がいい。長距離客を狙えるし、どこに行くにもすぐに首都高に乗れる。そのやり方が性に合っているのか、ここ1~2年、磯辺の月の水揚げは、100万円を超えることはあっても、ただの一度として90万円を切ったことがない。出番のたびに7万5000円の水揚げを目標に走りだし、仕事を終わってみれば、確実にその数字を達成していた。「仕事は月曜日がいちばんやりやすい」は近ごろの磯辺の口癖だが、言葉の意味は、夜の繁華街でタクシーを待つ客の数がちょうどいいから、だった。木、金、土は言うに及ばず、ウィークデーでさえ夜の繁華街はタクシーを待つ客で溢れ、上客を選ぼうにも人が多すぎて難儀するが、その点、少しだけ人出が減る月曜日は客選びにちょうどいい感じなのだ。「ふ~ん」と、納得したのか、エリカはそこで夜のタクシーの話題を切り上げ、磯辺の腕に手をまわし「クルマ、どこに止めたの」と尋ねるのだった。無線を受けた磯辺が京橋の画廊から長野県の松本市まで走るのは、この3日後、月曜日のことになる。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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