よみタイ

オイルショックについて教えてくれた元商社マンのタクシー運転手

博識な村井さんの解説

 第二次世界大戦後、ジャージーとかシェルとかテキサコとかのメジャーズと呼ばれる国際石油資本によって中東の巨大な油田が次々に発見され、その結果、安い原油が世界の石油需要を増大させた。長崎の軍艦島も年明けには閉山と決まったらしいが、日本でも石炭から石油の時代に移り、安い原油は経済成長を支え、石油なしではやっていけないところまできている。俺も素人なりに、理屈ではわからないまでも石油依存の世の中を肌で感じているし、そこに関しては谷津さんも同様だからこそ「70%値上げ」の新聞の見出しに漠然とした不安を覚え、それゆえの村井さん頼りとなったのだろう。

「6年前の中東戦争で、イスラエルはシナイ半島やらゴラン高原を占領したやんか」

「知らん」

「占領したんや。アラブ側はな、『そこから完全撤退せいや』とイスラエルに求めとる。そやし日本やらの、いわゆる親イスラエルの国にやな、石油で踏み絵を迫ったわけや。親アラブとしてイスラエルによる占領を非難するんやったらええけど、そうでないんやったら石油はいままでのようには売ったらへんで、と。70パーセント値上げちゅうのには、そういう意味があるとわしは思うで」

 新聞が書いた「70%値上げ」の意味を簡潔に説明した村井さん。彼の話がどこまで正しいのかさっぱりわからないのに、フムフムと納得顔の谷津さんは「さすがインテリやな」と感心し、実は、俺も「やっぱり元商社マンだけのことはある」と、あらためて村井さんの博識ぶりを見直していた。

「これからが大変や。『大丈夫や』とか『灯油価格は凍結や』とか国が言うても、そんなん当てにならんしな。見とってみ、これから何もかんも値上げになる思うで。タクの運賃も上がるてニュースで言うとったやろ。そうなったらな、わしらの給料かて関係してくるんやで」

 口をはさんだのは、洗車を済ませたばかりで遅れて村井講義に参加した畑野だった。

「給料、上がるんやろ?」

「いや、下がるかもわからん」

「なんでや」

「黙っとけや畑野、わしが話を聞いとるんやし」

 谷津さんはそう言って畑野を制し、こう質問した。

「で、わしら、いつまで山川石油までガス入れに行かんとあかんの」

雄琴おごとやな」

 畑野が口をはさんだ雄琴とは、谷津さんのゲンコツのことだ。〝げんこつ〟という隠語の由来は知らないが(客が支払ったタクシー代を入金せずに握ってしまうという意味だとは思う)、メーターを倒さずに、客が払うタクシー代を自分の懐に入れる、いわゆるエントツ行為。谷津さんは、うちの会社には大勢いるエントツ行為常習者のうちのひとりで、週に何度か、雄琴のお姉さんを神戸までげんこつで送っている。高速代込みで一万円だそうだ。

「20リッターではな。ひと仕事すませてから、神戸、行かれへん」

高級焼き肉店でのデート

 ロースターの上で少し縮んだカルビの表面に脂が浮きでている。まるで煮えたぎっているかのように微小な泡が光って踊りだし、箸で焼き面をひっくり返したとたん脂が火に垂れてジューッと音をだした。カルビの端っこがそっくり返る。網にこびりついた肉の切れっ端が真っ黒な炭状になって、もくもくとでる濃度が薄くて白い煙の元はそれだった。目の前のみやびさんの顔をちゃんと見ることができず、俺は俯いたまま黙ってカルビを焼き、肉を網に載せると同時にジュッと音がすると思ってたのは勘違いなのだとこのとき初めて知った。

「焼き肉でよかったんか?」

 みやびさんも何を喋ったらいいのかわからないようで、だから口を突いてでた言葉がこんな間抜けな問いだったのだろう。俺は「うん」とだけ返し、焼き肉でよかったんだよとひとり合点していた。でき上がった料理が運ばれてくる店だったら、きっと間がもたずに困っていたに決まってる。

 きのう、仕事終わりの深夜2時少し前、いつものように三条大橋で山科への客待ちをしていたら、みやびさんがいきなり現れた。驚いた俺は「どうしたの」と尋ねただけで後が続かず、みやびさんは「方向違いやけどな」とだけ言った。方向違いだけど家まで送ってほしいという意味だと理解し、「今出川智恵光院でいいんだよね」と確認して走りだした。三条大橋を渡り川端通りを左折すると、南向きで信号待ちしていたうちの会社の空車とすれ違い、互いにクラクションを短く鳴らしている。

 みやびさんの顔を見るのは3週間ぶりくらいだった。あの日から俺はいちども西木屋町を流していない。会社に女の人から電話が二度あったというのは事務所の向井さんから聞いていた。みやびさんだろうと察しはついていたけれど、以前と同じように当たり前の顔をして雅の前を走れなくなっていた。

「電話、したんやで」

 今出川通りを左折したところでみやびさんが言った。「うん」とだけ俺は答え、堀川今出川の信号で止まったとき、みやびさんが「明日、ご飯たべに行かへんか」と言い、俺は、また「うん」とだけ返した。

 夜の7時に南座の前で待ち合わせ、みやびさんの「焼き肉でええか?」に頷いて彼女と並んで川端通りを下った。天壇が高級そうな焼き肉屋さんだとは知っていたけれど、入ったのはこれが初めてだった。

「学校、ちゃんと行ってるん?」

 カルビを二枚たべたところで、みやびさんはいかにも年上のお姉さん口調で俺に尋ね、そこで俺はやっと顔を上げ、長い髪を後ろでひとつにまとめた彼女の顔を見た。夜勤明けはさすがに疲れ、ここのところ学校には行けてない。来週は昼勤だし、仕事の合間にいくつかの講義にはでようと思う。俺はそんな調子でタクシー仕事と学校の話をしたけれど、あの晩の話題だけは口にしなかった。俺は公休日。みやびさんも「今日は仕事に行かへんつもりや」と言った。

「この後、どないする?」

 俺は、また、うん、とだけ返した。

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矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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