よみタイ

気になる女性が男と自分のタクシーに乗りホテル街へ向かう──新米タクシー運転手の苦い体験

深夜に乗ってきた客

 百年と少し前に制札場があった三条大橋の西詰に、頭を東に向けた空車のタクシーが四台並んだ。橋の東詰にある交差点の向こう側に三階建てくらいの建物があって、その壁に、三枚の大きな写真がこっち向きに掲げてあるのがタクシーを止めた位置からは夜目にも見える。等身大の二倍くらいはありそうな写真は、二軒隣にあるナイトクラブ、ベラミに出演予定の歌手たちで、伊勢功一と欧陽菲菲、あと一枚が誰なのか、街灯の光のかげんで写真が真っ黒だから確認はできなかった。

 並んだ空車の花番はうちのクルマで、トランクの端に「71」と号車番号を記してあるから乗っているのは谷津真一やつしんいちさんだ。まだ35歳くらいなのにタクシー稼業に入って10年以上が経つ谷津さん、しばらく前までの俺の相勤で、いけないことでは、たとえばタクシーチケットを不正に使って小金を手にする方法とかエントツ行為の極意とかを聞いてもいないのに教えてくれたり、あるいは「空車のときは前を走っとる空車を抜かしたらあかんで」といった類の、いくつもの不文律を新米の俺に指南してくれた先輩でもある。二番手は洛東タクシー、三台目が俺、後ろには畑野義人はたのよしひとが続いている。畑野は、俺が入ってくるまでうちの会社の最年少運転手だった。俺とは歳がひとつしか違わないくせに、やつは東野にできた新しいマンションで、25だか6の、東山三条あたりにあるスナックのホステスと暮らしている。どっちも夜の仕事(畑野は夜勤専門の運転手なのだ)をしている玄人だから互いにシンパシィを抱くのか、そこまでではないにしても少なからず同業者意識みたいなものは確かにあって、タクシーに乗り合わせれば運転手とホステスは当たり前のように親しく話す。畑野たちの馴れ初めもそうだったと聞いた。かつての相勤、谷津さんと、同年代の畑野。ふたりと俺にはそういうつながりがあるものだから、200人ほどもいるうちの会社の運転手のなかで、俺は、このふたりとはよく話すようになり、すると、いつの間にか仕事のペースも似てきて、休憩に立ち寄る喫茶店だけでなく、出庫時間や帰庫時間まで同じようになっていた。

 木屋町も河原町通りも歩いている人の姿はまばらだったから、この調子だと客を積むまで30分くらいは待つことになるかもしれない。ところが思いのほか流れがよくて、たて続けに前の二台が客を乗せて走りだしたものだからすぐに花番がまわってきた。

 その男が乗り込んできたのが何時だったか正確には覚えていないが、まだ二時になっていなかったのは間違いない。カーステレオを止めラジオを点けると、二時が放送終了の深夜のリクエスト番組がザ・ナターシャー・セブンの『春を待つ少女。』を流し、次の曲はディープ・パープルの『BLACK NIGHT』だと言っていた。

 珉珉の前でタバコに火をつけた男が小走りで三条通りを渡り、こっちを見ながら人さし指を向けた。「わし、乗るで」の意思表示である。

「山科やけど」

 黒い革ジャンに白いマフラー、深めにかぶった阪神タイガースの帽子という身なりは、本気か洒落かの境界線で揺れてそうなセンスで、歳の頃は40前後といったところだろうか。男は「山科やけど」と目的地を告げて乗り込み、俺は「おおきに」が言い終わらないうちにドアを閉めた。それと同時に後ろの畑野がクラクションを鳴らしたから、俺も短く鳴らして返した。

 ついさっき、男連れのみやびさんを乗せて通った三条通りを走りだしたとたん、ホテル街を歩きながら振り返って俺と視線を合わせたみやびさんの顔が浮かび、やっと静かになったばかりの胸の大声が、また高鳴りだす。

「四しの宮みやの信号の少し先までたのんますわ」

 四宮の信号なら願ってもない。うちの会社のすぐ横だ。

 会社は信号の少し先、三条通りに面していて、ちょうど車庫の出入口あたりが三条通と名神高速道路・京都東インターチェンジの分岐点になっている。真ん中の車線を直進するとその先はすぐに名神の入口で、三条通りを道なりに走れば、ほんの数百メートルほどで滋賀県、かつての東海道の雰囲気をいまも残す追分である。左右を山に囲まれて、そこを縫うようにして通る国道一号線の、いくつもの歌に詠まれた逢坂関おうさかのせきを越えれば大津の市街地はもうすぐそこだ。つまり、うちの会社がある四宮は京都市のもっとも東に位置しているという意味で、京阪電車・京津線の四宮は京都の東の外れの駅なのである。三条大橋から四宮の信号までの距離はぴったり6キロ。粟田口を過ぎて都ホテルのあたりまでは基本料金の150円*2のままで、その先、京阪電車・京津線の蹴上けあげの停留所をかすめながら最初のメーターがパチンと上がって180円に。毎日のことだから爾後メーターが上がる位置まで覚えてしまった。三条通りの四宮の交差点までだと料金は360円か、信号の具合で390円、深夜割増だと420円か450円になる。

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新刊紹介

矢貫 隆

やぬき・たかし/ノンフィクション作家。1951年生まれ。龍谷大学経営学部卒業。
長距離トラック運転手、タクシードライバーなど多数の職業を経て、フリーライターに。
『救えたはずの生命─救命救急センターの10000時間』『通信簿はオール1』『自殺―生き残りの証言』『交通殺人』『クイールを育てた訓練士』『潜入ルポ 東京タクシー運転手』など著書多数。

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