よみタイ

置き忘れた腕時計を、3年後に何の連絡もなくふらっと取りに現れた男性

ふとした会話が、表情が、何気ない何かがずっと頭に残って離れない……そこで湧き上がる気持ちをスズキナオさんはこう表現することにした。「むう」と。この世の片隅で生まれる、驚愕とも感動とも感銘ともまったく縁遠い「むう」な話たち。 今回は、なぜその行動を、その発言を今になって……と思わずにはいられない、ちょっと可笑しみにあるエピソードです。

なかなか持ち主が現れなかった腕時計

数か月前、友人がふと思い出したかのように語ってくれた話があった。その友人がかつてやっていた小さな雑貨店で起こったことだという。

ある日、一人の客がやってきた。なんとなく会話を交わすうち、自分とその客には共通の友人がいることがわかった。親しみを感じ、「よかったらお茶でも一杯どうですか」と友人が声をかけた。店の奥の座敷にはちゃぶ台があり、暇な店だったから日頃からスタッフがそこでお茶を飲んだりお菓子を食べたりしてくつろいでいた。たまに商店街の古びたお店なんかをちらっとのぞくと、店の中で店主と常連客がのんびり雑談したりしている、あんな感じで、「どうぞどうぞお上がりください」とその客を奥へ招き、しばらく色々と話をした。

話が盛り上がって時間が経ち「そろそろ帰ります」とお客は帰っていった。やがて閉店時間となり、店じまいの作業を進めていると、ちゃぶ台の上に腕時計が置かれているのが目に入った。先ほどここで話し込んでいたお客が忘れていったものらしい。思い返してみると、お茶菓子を食べる際にその人が腕時計を外してちゃぶ台の上に置いた動作を見たような気がする。

「どうしよう……」と困ったが、すぐにいい案が思い浮かんだ。共通の友人がいるのだから、連絡先を聞けばいいのだ。
その後、無事その人のメールアドレスを知ることができ、腕時計の忘れ物があったこと、店で預かっておくのでいつでも気が向いた時に受け取りに来て欲しいことなどを書いて送った。翌日、「忘れ物すみませんでした!今度受け取りにいきます!」というような返事が来た。

そしてそれから1年が経った。忘れ物の主は一向に腕時計を受け取りに現れなかった。友人はしばらくの間そのことを不思議に思ったが、いつの間にかその存在自体をすっかり忘れてしまっていた。店で扱う商品の在庫を確認する棚卸し作業の際、ふと片隅からその腕時計が出てきて、「あれ、そういえばこれ……」と思い出した。

その時に「いつ取りにきますか?」とメールでたずねてもよかったと、今になると友人は思うそうだが、大事なものだったらすぐにでも受け取りにくるはず、きっと気が変わったか、店まで来るのが面倒になったかのどちらかだろうと思った。

だいぶ前のことらしいので、こんな腕時計だったのか……と想像してみるのも楽しい
だいぶ前のことらしいので、こんな腕時計だったのか……と想像してみるのも楽しい

さらにそれから1年以上が過ぎたある日のことだった。

ドアが開くと、あの時の客が立っていた。こっちに近づいてきて「時計を受け取りに来ました」と言う。どういうことだか理解するまでに時間が必要だった。
「あの、前に腕時計をここに忘れていってしまって」「え、ああ……」と、友人はうろたえた。その腕時計がどこにあるのか、もうまったくわからなくなっていたのだ。だいぶ前に店内のレイアウトを大きく改修する機会があり、その時にかなり色々なものを処分したから、ひょっとしてそこに紛れてしまったのかもしれない。

友人が頭を下げて事情を話すと「いや、全然いいっすよ!」と、思いがけずライトなリアクションが返ってきて「じゃあ」と、すぐにその客は店を出ていった。その後ろ姿を見送ったまま友人は立ち尽くしていたが、「っていうか……なんで3年後なの?」と、そのタイミングの不思議さを思い、笑いが込み上げて止まらなくなった。
まるで次の日に受け取りに来たかのような自然さでその人は「受け取りに来ました」と言ったのだという。

タイムスリップでもしたかのようなその唐突さに私は面白さを感じ、それと少し似たような話を思い出した。

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スズキナオ

1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。
WEBサイト『デイリーポータルZ』『メシ通』などを中心に執筆中。テクノバンド「チミドロ」のメンバーで、大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。
著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、パリッコとの共著に『酒の穴』、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』、『“よむ"お酒』など。
Twitter●@chimidoro

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