よみタイ

スズキナオ「この世の隅っこの「むう」な話」

置き忘れた腕時計を、3年後に何の連絡もなくふらっと取りに現れた男性

長年の友人の愛称と本名の真実

私には「小場」と書いてオバと読む名字の友人がいて、仲間の間では「オバちゃん」という愛称で呼ばれていた。私にオバちゃんを紹介してくれた友人が、「この人がオバちゃん! 音楽が好きだから話が合うと思うよ」と言い、それを聞いた私は、初対面からずっと彼をオバちゃんと呼んでいる。

オバちゃんは真顔ですることがちょっとすっとぼけているような愛嬌のある男性で、彼も私もダンスミュージックが好きだったから、一緒にレコードを買いに行ったり、音楽機材を持ち寄って曲を作って遊んだりした。学生時代、よくお金が無くてお腹を減らしていた私に「しゃーねえなあ。おごるよ」と、気前よく夕飯をごちそうしてくれたりして優しいところもある。

お互い会社に勤め出し、以前ほど頻繁に会うことはなくなったが、それでもたまに顔を合わせてはお酒を飲んだ。初めて出会ってから気づけば10年ほどが経っていた。20歳そこそこで知り合った二人がもう30歳になっているのだ。

そんなある日のこと、私と同じくオバちゃんと仲のいい友人と会った際、そいつが私に言った。
「この前、オバちゃんと飲んだんだけどさ、オバちゃん、オバちゃんじゃなかったんだよ。お前、知ってた⁉︎」

友人が真実を打ち明けたタイミングの謎

どういうことだろうか。まったくわからなかった。
詳しく友人の話を聞いてみると、仲間内の数名が居酒屋に集まって久々にゆっくりと酒を飲んでいたところ、オバちゃんがふと「あのさ、俺、オバちゃんじゃないんだよね」と言った。
「コバなのよ、コバ。俺の名字、オバじゃなくてコバって読むの」と、それを聞いた一同は座敷の座布団から飛び上がらんばかりに驚いた。

「え!オバじゃないの⁉︎ じゃあ、なんでオバちゃんなの?」「知らないよ! 誰かが最初に間違って、それでずっと……」と、オバちゃん、いや、コバちゃんはグラスのビールを飲み干した。

居酒屋で彼が「今かな」と思ったのはなぜだったのだろう
居酒屋で彼が「今かな」と思ったのはなぜだったのだろう

その場にいたのはみんな長い付き合いの友人たちばかりで、だからみんな10年以上も彼の本名を間違っていたことになる。
「オバちゃんじゃなかったんだ……あのさ、なんで今それを話したの?」と友人の一人が聞くと、「なんか、今かなって思って」と彼はつぶやくように言ったという。

明日でもなく一週間後でもなく、10年後に突如やってくるタイミングもある。知らない人からすればオバだろうがコバだろうがどっちでもいいようなものだろうけど、本人がある時にそれを訂正しようと思ったという、その決意の瞬間が私には面白く思えてならない。

幸いその場にいなかったので、私にとってはオバちゃんはオバちゃんのままだ。いつか彼の口から「俺、コバなんだよね」と言われる日が、あと10年後にでもふいに訪れたら笑えるなと思っている。

(了)

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スズキナオ

1979年東京生まれ、大阪在住のフリーライター。
WEBサイト『デイリーポータルZ』『メシ通』などを中心に執筆中。テクノバンド「チミドロ」のメンバーで、大阪・西九条のミニコミ書店「シカク」の広報担当も務める。
著書に『深夜高速バスに100回ぐらい乗ってわかったこと』、パリッコとの共著に『酒の穴』、『椅子さえあればどこでも酒場 チェアリング入門』、『“よむ"お酒』など。
Twitter●@chimidoro

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