2026.9.23
「自分の機嫌は自分で取る」ことを強いられる社会で「孤独」であるということ【こんな質問が来る 第12回】
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お祭りで見た忘れられない瞬間
少し個人的なことだが、僕は自分のSNSのアカウントでグルメ情報はできるだけ出さないようにしている。これみよがしに美味しそうな食事の写真をアップしたとしても、具体的な店名などは出さないのだ。
グルメ情報といえばSNSで扱うトピックの中でもド定番であり、実用的な情報だけに反応も手堅い。しかし、一度それに手を染めると、次第にグルメ情報を目当てにしたフォロワーが集まってくることになる。そして彼らの期待に真摯に応えるほど「グルメ情報を出す人」に僕のキャラクターが固定化されていき、その役割を無視できなくなる。そして何より集まってくる彼らは目的を明確に持っており、基本的にそれ以外の僕の側面には関心がないのだ。
そもそも、僕にとってSNSというものは、「床(疲れ果ててリビングの床に伏している状態)。」とか「今日も川を渡って帰る」など、誰の役にも立たないし、誰に届かなくてもいい、そんなどうでもいい情報をあてもなく発信できる場所である。しかし、そんな場所の居心地が、グルメ情報を目的とする人々のまなざしに晒されるようになることで大きく変わる。これまでどおりのどうでもいいことを呟くたびに、「そんなのいらないんだよ」という「がっかり」の気配を感じるようになるのだ。だんだん、自分の気持ちが痩せていくのが分かる。
奇妙な話である。たくさん人が集まってくるのに、逆に孤独感は増すばかりなのだ。うっかりお気に入りのレストランを紹介してしまっただけなのに、なぜこんな思いをしなくてはいけないのか。こうして、僕はグルメ情報を封印することになったのである。
便利な人のもとに人は集まる。けれども、そんな関係性では、いくら人を集めたところで、その人自身が求められているわけではない。むしろ、その有用さゆえに遠ざかってしまうものがあるのだろう。
とはいえ、こんな時代でも世知辛い話ばかりではない。時にはこんなお便りも来る。
「仕事辞めますって同僚のおじさんに言ったら、「いいことや、応援する。〇〇ちゃん(あだ名)は大物になるで。一緒に働いててすごいなと思ってた。大物になるわ」って一通り褒めてくれたあと「さみしいなー」て言ってくれて、私もさみしかった」
「さみしい」と口にすることは、相手へ親愛の情を伝えるメッセージでもあったと思い出させてくれるエピソードである。
われわれが日々、細心の注意を払って避けているあの地雷とは、要するに、目的の外にあるものが不意に噴き出してくることだった。地雷を踏むな、というのは、外に出るな、ということである。
結局、役割への期待と目的の内側にとどまろうとするかぎり、不意に訪れた「どうでもいいこと」を誰かと分かち合うような瞬間からは遠ざかってしまうのだろう。たぶん、それはうっかり踏み外してしまったとき、ふと外から吹いてくる風のようなものである。孤独とは、人のいないことではなく、人がいたとしても、そして安全だったとしても、そんな風の吹くことがない場所の名前なのだろう。
そういえば、いま住んでいる街に越して来た最初の夏のことだったと思う。お祭りがあるというので覗いてみた時のこと。屋台で行列に並びながら、威勢よくベビーカステラを焼くテキヤのおじさんの手元に見惚れていたら、こんなやりとりに出くわした。おじさんが商品の袋を女の子に手渡す際、ふと彼女の手首の内側にあるタトゥーに目をとめたのである。
「なんて書いてんの?」
「ん?もう忘れた」
「ええっこちゃ。今がそんだけ幸せっちゅうこっちゃ」
「ありがと〜」
そう言って、浴衣の女の子はベビーカステラのつまった小さな袋をぶら下げて祭りの賑わいに消えていった。
たった数秒のやり取りだが、この瞬間のことをもう何十回も思い返している。
僕はあんなふうに聞けるだろうか。
僕もいつか、あんなふうに言えるだろうか。
連載『こんな質問が来る』は今回で最終回です。書き下ろしを加えた書籍を準備中ですのでお待ちください。
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