2020.4.17
徳川家康―乱世を終わらせた最強のサバイバー 律義者orたぬき親父?
「戦国」の終焉
関ヶ原で勝利を得た後も、家康は豊臣政権のナンバー2という立場を堅持しました。
東軍に付いたとはいえ、福島正則や加藤清正、黒田長政ら豊臣恩顧の諸将は依然として豊臣家に忠誠を誓っています。家康が秀頼に手を出そうものなら、彼らがいつ、第二、第三の三成に変貌するかわかりません。
慶長八年、諸侯の動静を慎重に見極めた家康は、ようやく征夷大将軍に就任。しかしそのわずか二年後、将軍の座を息子の秀忠に譲りました。今後、天下人の座は徳川家が世襲すると、天下に示したのです。
大坂の淀殿はこれに激怒しますが、慶長十六年、織田有楽斎の奔走により家康と秀頼の会見が実現し、豊臣家よりも徳川家が上位にあることを印象づけました。
さて、ここで少し角度を変えて、家康が簒奪した豊臣政権とはどんなものだったのかを見ていきたいと思います。
そもそも日本の中世では、「自力救済」という理論が社会の隅々にまで浸透していました。揉め事が起こった時には、自らの実力で解決するという考え方です。小は農村同士の(水や山林といった)資源争いから、大は大名間の紛争にいたるまで、人々は他者に裁定を委ねることなく、自分たちの手で解決していました。無論、話し合いで決着がつかない場合、問題解決の手段は武力を用いた合戦ということになります。こうした揉め事を裁定し、抑制するのが各地の守護大名や幕府でした。
しかし、応仁の乱による室町幕府の弱体化、気候変動による食糧不足などの様々な要因が重なると、農村や都市、寺社や各地の武家といった諸集団間の紛争に歯止めがかからなくなります。紛争は常態化し、その中から力をつけて地域に君臨したのが、戦国大名でした。戦国大名たちはそれぞれの権益を守るため、あるいは領土を拡大するため、抗争を繰り返します。非常にざっくりとした説明ではありますが、これが「戦国」という時代でした。
では、豊臣家は他の戦国大名と何が違うのか。それは、「自力救済」を否定したことです。天下統一の過程で、秀吉は全国の大名に「惣無事令」を出しています。
これは、大名間の領土紛争を武力で解決することを禁じる命令――すなわち、私戦の禁止でした。もしも領土紛争が起きた場合には、上位権力である豊臣家に訴え出て、秀吉の裁定を仰ぐことになります。この惣無事令を拒絶した九州の島津氏や小田原北条氏は、豊臣家の圧倒的な大軍によって「征伐」され、屈伏、あるいは滅亡することとなりました。
こうして、惣無事令に従わない大名は一掃され、日本国内から大名間の紛争は後を断ちました。秀吉の裁定が公明正大なものであったかどうかはともかくとして、豊臣政権は武力ではなく、法による支配を徹底しようとしていたのです。
また、太閤検地や刀狩令、海賊取締令といった政策も、田畑の所有者を確定し、地域社会を武装解除するという点から、自力救済の否定という文脈で行われたと見ることができそうです(もっとも、刀狩令に関してはあまり徹底されなかったようですが)。
この、自力救済の否定、法による支配の徹底という理念は、後の江戸幕府にも引き継がれていくこととなります。その意味で家康は、秀吉の正統な継承者といってもいいでしょう。
家康は当初、豊臣家を滅ぼすつもりはありませんでした。秀吉が織田家に対してしたように、それなりに敬意を払いつつも、一大名として扱うつもりだったのでしょう。有名な方広寺鐘銘事件も、家康が言いがかりをつけたというよりも、豊臣側の軽挙、あるいは不注意といった要素が強いようです。
むしろ、この事件を問題化し、豊臣家討伐を主導したのは秀忠だったと思われます。豊臣家が、家康の死後に兵を挙げることを危惧したのでしょう。関ヶ原の本戦に加わらず、これまで取り立てて武勲の無い秀忠としては、豊臣家を自身の手で滅ぼし、将軍としての権威を示したいという思惑もあったかもしれません。
一方、豊臣家内部でも強硬派が台頭し、対徳川宥和派の重臣・片桐且元を追放するという暴挙に出ます。戦になったとしても、大坂城は容易には落ちない。豊臣恩顧の大名が決起する。こうした希望的観測を基に、開戦へと舵を切ります。かくして、戦国最後の戦、大坂の陣がはじまりました。
戦いの詳細は、改めて書くまでもないでしょう。真田丸の戦いでは勝利したものの、期待した豊臣恩顧大名の挙兵も無く、豊臣方は追い詰められ、和議を受け入れることで冬の陣が終了します。よく言われる「徳川方が違約して内堀まで埋め、大坂を裸城にしてしまった」というのは俗説で、堀の埋め立てに関して両軍の間にトラブルはありませんでした。
冬の陣終結の段階でも、家康に豊臣家を滅ぼす意図は無かったように思われます。しかし、大坂に集まった牢人衆は和議に納得せず、埋められた堀を掘り返し、火薬の製造まではじめます。家康は牢人衆の召し放ち、あるいは豊臣家の国替えを要求しました。秀頼は強硬派を抑えきれずこれを拒否。夏の陣が開戦となります。
籠城策が採れない豊臣方は野戦に打って出ますが、連携不足もあって各地で敗北、大坂城に追い詰められました。最終決戦となった天王寺・岡山の戦いでは、真田信繁隊が家康本陣に突入、本陣は家康が切腹を覚悟するほどの混乱に見舞われますが、徳川方は次第に態勢を立て直し、疲弊した豊臣方を撃破。大坂城は炎に包まれ、淀殿・秀頼母子は自害、豊臣家は滅び去りました。
応仁の乱から数えれば、およそ百五十年続いた戦国乱世が、ようやく終わりを告げたのです。
「生きる」が勝ち
徳川家康の人物像を把握するのは、容易なことではありません。
江戸期の軍記物では「神君・家康」を讃えるべく、さまざまな逸話が創造され、あたかも完全無欠の英雄であったかのように語られています。現代においても、最終的に天下を獲ったという結果から逆算した、いささか過大とも言える評価がなされているのではないでしょうか。
しかし言うまでもなく、彼も一人の人間です。苛立って爪を噛み、危機に見舞われれば、取り乱して腹を切ろうとする。三成の挙兵で窮地に陥ったのも、天下を半ば以上掌握したという油断からでしょう。
では、そんな彼がなぜ、最後に天下を獲ることができたのか。それは一言で言ってしまえば、「死ななかったから」でしょう。
家康の行動原理は徹頭徹尾、生き残ることにありました。彼が家の存亡を懸けた大勝負に出たのは、数倍の武田軍に挑んだ三方ヶ原の合戦だけです。後は、慎重の上にも慎重を期し、周囲の情勢を見定めた上で行動に出ました。
家康は、他の武将ならば切腹して果てるような状況でも、歯を食いしばってこらえ、みっともなくとも、生きるために足掻き続けました。鷹狩を好み、自ら薬草作りに凝っていたのも、少しでも長く生きるためのものでしょう。関ヶ原の戦いの時点で、家康は五十九歳、豊臣家を滅ぼしたのは、実に七十四歳です。当時としては、相当な長寿でした。
彼がそこまで生きることに固執したのは、家のために犠牲にせざるを得なかった妻と子のため、何があっても家を存続させることを誓ったからだった、というのは少し、感傷的に過ぎるでしょうか。
いずれにせよ、乱世を終わらせた英雄にしてはあまりに地味で、颯爽としたところに欠けた人物ではあります。信長のような苛烈さも、秀吉のような(晩年はさておき)陽気さも持ち合わせない、ある意味で最も「普通の人」に近いところが、現代の人気がいまひとつな理由かもしれません。
しかしそんな「普通」に近い人が最後まで勝ち残り、天下を獲って二百五十年に及ぶ平和の礎を築く。それはそれで、とても夢のある話ではないでしょうか。