2020.1.18
今川氏真―暗愚なボンボンのレッテル
漂泊の文人、あるいは居候の達人
領地を失い、妻の実家である北条家の居候となっていた氏真ですが、すぐに武士としての生き方を捨てて、安穏と暮らしていたわけではありません。
氏真が去った後も、岡部正綱ら一部の今川家臣は依然として武田家への抗戦を続け、今川家再興を目論んでいました。北条・徳川両家はそうした動きを支援し、駿河を舞台に戦いが繰り広げられていたのです。氏真も、抵抗を続ける家臣たちに所領安堵の書状や感状を数多く発給していました。
しかし、戦況は次第に武田家有利に傾き、今川家臣たちも信玄の軍門に降っていきます。元亀二(1571)年に北条氏康が没すると、跡を継いだ氏政は外交方針を転換、武田家との同盟を復活させます。
こうなってはもはや、北条家に氏真の居場所は無く、次の居候先を探さねばなりません。氏康の死からわずか二ヶ月後、氏真は北条領を離れ、徳川家康を頼りました。
駿河が平定され、北条家も武田家と手を組んだことで、今川家再興の道は完全に断たれました。北条領を去る氏真の心境はいかばかりのものだったでしょう。掌を返した北条家への恨みか、それとも己への無力感か。そんな彼の唯一の救いは、早川殿が実家を捨て、氏真に付き従ったことかもしれません。
その後、氏真はしばらく浜松に滞在していたようです。家康としても、前駿河国主を庇護下に置けば、武田家に対抗する大義名分となります。待遇は、それほど悪いものではなかったでしょう。
仇敵・武田信玄没後の天正三(1575)年一月、氏真は上洛の旅に出ました。一応、徳川家と京の公家衆の橋渡しという政治的目的もあったのでしょうが、それはそれ。上洛するや、名所旧跡を訪ね歩いたり、旧知の公家や歌人と旧交を温めたりと、これまでの鬱屈を晴らすかのような悠々自適の旅だったようです。
そして京都滞在中の三月、氏真は一人の人物と邂逅を果たしました。父の仇・織田信長です。
『信長公記』によれば、三月十六日、氏真は京都相国寺に宿泊していた信長を訪ねました。また、これ以前にも信長に茶器を献上したと記されています。
この時、信長は氏真が蹴鞠をやるということを聞き、蹴鞠の会を開くことを所望しました。二十日、相国寺で開かれた会に氏真は公家衆とともに参加し、信長はこれを見物します。
父の仇に辞を低くし、求められるままに蹴鞠を披露する氏真。それを高みから傲然と見下ろす信長。そんなイメージを抱く方も多いでしょう。実際、信長の前で蹴鞠をやってみせたことが、氏真への非難のネタになっています。曰く、父の仇に媚びへつらう軟弱者、蹴鞠しか能の無いダメ武将etc。
しかし、この会が信長の生来のイベント好きに火を付けたのでしょうか。信長は四月三日、四日にも蹴鞠の会を挙行し、またも氏真を招きました。そればかりか信長は、「いっちょ俺も」とばかりに、氏真や公家に交じって自ら蹴鞠を行っているのです。
桶狭間から十五年の時を経て、氏真と信長は仇敵同士という立場を超越し、ともに汗を流し、協力して鞠を蹴っていました。戦国乱世にあってはなかなかお目にかかれない、美しい光景に思えるのですが、いかがでしょう。
それから間もなく、氏真の上方旅行は幕を閉じました。信玄の跡を継いだ武田勝頼が徳川領へ侵攻したため、氏真も家康のもとへ駆けつけるべく、京を後にしたのです。
「お前が駆けつけても役に立たないだろwww」というツッコミもしくは嘲笑が聞こえてきそうですが、居候先が滅びてしまっては大変です。
幸い、武田軍は長篠・設楽原の戦いで徳川・織田連合軍に大敗し、徳川家は危機を脱しました。この時、氏真も家康の命で三河牛久保まで後詰に出向いています。もっとも、牛久保は戦場のはるか後方で、氏真がいてもいなくても、戦況には微塵も影響はありませんでしたが……。
その後、氏真は家康の指揮の下、小規模ながらいくつかの戦いに参戦し、武田領となって久しい駿河にも出兵しています。これが、氏真最後の出陣となりました。
天正四年三月、氏真は家康の指示で、城番として遠江中央部の要衝・牧野城に入ります。しかし翌年三月には城番を解任され、浜松へ戻されました。この一年足らずの牧野城番時代に、氏真は剃髪して「宗誾」と号しています。
この時、氏真は四十歳。恐らくここが、氏真が戦国武将、そして今川家当主という立場を完全に捨て、文人へシフトした転換点だったのでしょう。「四十にして惑わず」と言いますが、長い苦難の時代を経て、氏真はついに己の生きる道を見定めたのです。
実現不可能としか思えない今川家再興に見切りをつけたのか、あるいは戦そのものに嫌気が差したのか。いずれにせよ、これ以後、氏真は軍事にも政治にも携わらず、発給文書も絶えています。
その後の氏真の動向ははっきりとしませんが、天正十年の時点では依然として家康のもとで居候暮らしをしていたようです。京都から公家が下向した際の宴席に氏真の名が見えることから、教養を活かした接待要員となっていたのかもしれません。
信長が本能寺に斃れ、豊臣秀吉の天下統一が完成した頃、氏真の姿は京都にありました。公家・山科言経の日記によると、氏真は京都に住み、公家衆の開く歌会に、頻繁に顔を出しています。平穏な京都で文人たちと親しく交わる日々は、彼にようやく訪れた安息の日々だったのかもしれません。
豊臣からさらに徳川へと天下が移った慶長十七(1612)年、氏真は京都を発ち、駿府の家康を訪ねています。
この会見で、氏真は家康から近江野洲郡で五百石の領地を安堵されました。また、品川に屋敷を与えられていることから、この後は江戸で暮らしたものと思われます。
翌年、長年連れ添った妻の早川殿が亡くなり、そのさらに一年後の慶長十九年十二月、今川氏真は江戸で没します。大坂夏の陣で豊臣家が滅び、名実ともに戦国時代が終焉を迎えた、およそ五ヶ月前のことでした。享年七十七。子孫は徳川家に高家(儀式や礼儀作法、朝廷との交渉を司る役職)として仕え、その家名を明治の世まで伝えています。
領地こそ駿河・遠江・三河の三国から、たったの五百石まで激減したものの、命を奪われることなく家名を後世にまで残した氏真は、本当に「家を滅ぼしたポンコツ大名」だったのでしょうか。