よみタイ

天野純希 「戦国サバイバー」

今川氏真―暗愚なボンボンのレッテル

乱世の荒波に揉まれて

 家督相続から約二年、当主の仕事もようやく慣れてきたであろう氏真は一転、窮地に立たされました。
 まず、重臣・有力国人層をごっそりと失ったことで人材難に陥り、領国経営に支障が生じました。そして、今川支配下に入って日が浅い三河では、桶狭間で多くの犠牲を出したこともあり、不満が渦巻いています。氏真は領内の国人や寺社に宛て、所領安堵の文書を数多く発給しますが、不満は収まりません。ついには、桶狭間の戦いの後に三河岡崎城に入った徳川家康が離反、三河から今川家の勢力を駆逐し、さらに仇敵の信長と同盟まで結んでしまいます。
 氏真への批判の一つに、「親が討たれていながら、弔い合戦を挑まなかった」というものがあります。しかしこうした状況下では、弔い合戦などやりたくともできなかったというのが実情でした。もしも無理を押して信長との再戦に踏み切っていれば、領内はさらに混乱、今川家の滅亡は史実よりずっと早まっていたことでしょう。
 義元の死後、氏真は祖母・寿じゅけいの後見を受けながら、懸命に領国の立て直しを図ります。所領の安堵で家臣団や傘下国人の繋ぎ止めに努める一方で、内政にも力を注ぎました。遠江のほうごうには百姓の求めに応じて徳政令を発布し、たなくさごうには、農業用水に関する取り決めを記した朱印状を発給しています。
 そして特筆すべきは、楽市の実施でしょう。氏真は、毎月六度、富士大宮で開かれる市に対して、楽市とすべき旨の朱印状を発布しています。商人に税をかけないことで、領内の商業の活性化を目指したのです。これは、織田信長がはじめて楽市を実施する前年のことでした。
 また、氏真は政務を重臣に任せ、自身は連歌や茶の湯、蹴鞠にふけっていたかのように言われることがあります。実際、氏真の時代にも駿府には多くの公家が滞在し、茶会や連歌の会が盛んに開かれていました。
 しかし当時の武家にとって、そうした文芸は必須の教養です。また、公家との交流は朝廷とのパイプ作りという意味でも、極めて重要な意味を持っていました。茶の湯や連歌、蹴鞠の会を開くのは単なる余暇の遊戯ではなく、国主の務めなのです。
 また、蹴鞠はサッカーやバレーボールとは違い、全員で協力して鞠を何回蹴り上げられるかを競う、いわば和を重んじるスポーツです。相手が受け取りやすく、返しやすいパスを出さなければ記録は狙えません。残念ながら筆者に蹴鞠経験はありませんが、運動能力の他にもコミュニケーション能力や相手を思いやる力も大切になるのは、想像に難くありません。そしてそれらはいずれも、武将として、為政者として必要な能力です。
 それでも、氏真が国主としての務めを放棄して蹴鞠にたんできしていたのであれば、そうした批判は免れません。しかし「氏真=文に溺れた軟弱大名」という評価は、ほとんどが『甲陽軍鑑』や『徳川実紀』といった、後世に編纂された史料によるものです。実際の氏真は先に見たように、政務を怠るどころか積極的に文書を発給し、軍事や外交にも携わっています。同時代の史料を見る限り、彼が傾きかけた今川家を立て直そうと苦心していたのは紛れもない事実でしょう。

 さて、家康の離反で三河を失った氏真ですが、苦難はさらに続きました。遠江でも、家康の調略を受けた国人衆の反乱が相次いだのです。
 国人衆の離反の一因には、氏真の強硬な姿勢もありました。家康が謀叛を起こした際、内通を疑われた三河の国人が駿府に置いていた人質を処刑し、家康のしゅうとに当たる重臣も切腹させたのです。また、西遠江の国人・井伊なおちかを謀殺したことも、傘下の国人衆の信頼を失うことになりました。
氏真は多くの犠牲を払いながら、二年の時をかけて遠江の反乱を鎮圧します。ところが、これでようやく領内の立て直しに専念できると思った矢先、隣国・甲斐で甲駿相三国同盟を脅かす大事件が起こりました。武田信玄の嫡男で、氏真の義兄弟でもある義信が廃嫡、幽閉されてしまったのです。
 義信の側近たちが信玄暗殺を企て、それが露見したというのが表向きの理由ですが、真相は不明です。一説には、親今川派の義信が、今川との同盟破棄を目論む信玄にとって邪魔になったためとも言われています。
 実際、当時の信玄は親今川から親織田へと路線転換を図っていました。事件の直前には、四男・勝頼の正室に信長の養女を迎えています。言うまでもなく、織田家との同盟は今川家との敵対を意味します。こうした信玄の行動を見て、義信やその家臣たちが焦りを覚え、暴発したというのが妥当なところでしょうか。
 信玄というと、あの肖像画のイメージも手伝って、非常に重厚な武人という印象がありますが、実際はかなり悪辣な手口も用いています。和睦した敵の大将を騙して自害させたり、皆殺しにした敵兵を城の前に晒して戦意をくじいたりと、なかなかエグい策を躊躇ためらうことなく実行する人物でした。その信玄にとって、義元の死で動揺する今川家は、恰好の草刈り場に映ったのでしょう。
 信玄は、義信の廃嫡後も三国同盟を維持する姿勢を見せていましたが、あくまで見かけだけのものにすぎません。その裏では家康と接触し、今川領を山分けする密約を結びます。
 信玄が虎視たんたんと今川領を狙っていることは、氏真の目にも明らかだったことでしょう。この最悪の事態に、氏真は越後の上杉謙信と結ぶことで対処しようとしました。
信玄が駿河に軍を南下させれば、背後の信濃を謙信が衝く。その盟約が成れば、信玄も安易に今川領を攻めることはできなかったでしょう。しかし不幸なことに、この時の謙信の目は信濃ではなく、越中に向いていました。結局、今川・上杉同盟は不成立に終わります。
 余談ですがこの頃、氏真が山国である甲斐に塩を売ることを禁じ、それを卑怯とした謙信が甲斐に塩を送ったという有名な逸話があります。しかし、これは信頼できる同時代史料が無く、謙信を讃えるために後世に創作された逸話と見るのが妥当でしょう。ダシにされた氏真にしてみれば、とんだとばっちりというものです。

戦国大名・今川家の滅亡

 永禄十年十月、信玄は幽閉していた義信を自害させ、翌十一月には氏真の要請に応じて、義信の正室を駿河に送還します。そして翌十一年、義元の母で氏真の後見人を務めていた寿桂尼が没すると、ついに三国同盟を破棄、自らが総大将となって駿河侵攻の軍を起こしました。
 信玄は侵攻の理由を「氏真が上杉家と結んで信玄を滅ぼそうと目論んだため」としていますが、先に同盟破棄に動いたのは、明らかに信玄の方です。いささか苦しい言い訳と言わざるを得ません。
 武田軍来襲の報を受けた氏真は、重臣・はらただたねに一万五千の軍を授け、迎撃に向かわせました。その一方で、舅の北条氏康に急使を派遣、直ちに武田軍の背後を衝くよう要請します。
駿河を出陣した今川軍は、さっ峠に布陣しました。甲斐から今川家の本拠・駿府にいたるには、この峠を越えるしかありません。対する武田軍は一万二千。兵力で勝る上、地の利も今川軍にありました。名将・信玄が相手であっても、北条軍が到着するまでの時間は十分に稼げると、氏真は踏んだのでしょう。
 十二月十二日、今川・武田両軍は薩埵峠で激突します。開戦当日はよく武田軍の攻撃をよく防いでいた今川軍でしたが、翌十三日に突如、駿府へ向けて退却をはじめました。三浦、葛山、瀬名といった今川軍の将二十一名が、武田軍に寝返ってしまったためです。今川軍はほとんど戦うことなく総崩れとなり、武田軍は駿府へ向けて進撃します。
 戦場で二十一名もの将が寝返るというのは、そうそうあることではありません。駿河に侵攻を開始する前から、信玄の調略の手が伸びていたのでしょう。戦う前から、すでに今川軍の敗北は決定していたのです。このあたりは、信玄と氏真との、武将としての力量と経験の差が如実に表れる形となりました。
 ここにいたり、氏真は駿府の防衛は不可能と判断、忠臣・朝比奈やすともが守る遠江掛川城へと逃れます。混乱の中で将兵は次々と脱落し、早川殿にいたっては輿こしさえも用意できず、掛川城まで徒歩での移動を余儀なくされました。
 しかし、掛川城も安住の地とはなりません。武田軍が駿府を制圧した十二月十三日、徳川家康も信玄との密約に従い、遠江へ侵攻を開始したのです。徳川軍は駿府陥落に動揺する遠江の諸城を容易たやすく攻略し、二十七日には掛川城を包囲しました。
 一方、氏真の救援要請を受けた北条氏康は、信玄が娘のいる駿府に軍を向けたことに激怒、嫡男・氏政の正室となっていた信玄の娘を離縁した上で、氏真救援の軍を駿河に派遣します。明けて永禄十二年一月、北条・武田両軍は駿河東部で対峙、幾度かのぶつかり合いを経て、戦況はこうちゃくします。
 今川領最後の拠点となった掛川城でも、氏真と朝比奈泰朝は徳川軍の攻撃をよくしのぎ、長期戦の様相を呈していました。氏真がどれほど実戦の指揮に当たったのかは不明ですが、泰朝の助けがあったとしても、後に義元に代わって「海道一の弓取り」の異名を取る家康を相手に五ヶ月に及ぶ籠城戦を戦い抜いたことは、特筆に値するでしょう。
 今川・北条・武田・徳川の四者が手詰まりとなる中、動いたのは徳川家康でした。家康は北条家に使者を送り、武田家を除く三家での和睦を模索しはじめたのです。
 家康が武田家を疎外した原因は、信玄にありました。駿河を武田、遠江を徳川が獲るという約定を無視して、武田軍が遠江を窺う姿勢を見せていたためです。
信玄は三国同盟を破棄して駿河を奪うばかりか、密約相手の家康も出し抜き、あわよくば遠江まで手に入れようと目論んでいたのです。
 五月、かくして今川・北条・徳川の三者間で和睦の合意が成り、武田家を共通の敵とする同盟が成立しました。信玄は駿河一国を何とか確保したものの、今度は北条・徳川を敵に回す破目に陥りました。人間、欲をかきすぎるとろくなことが無いものです。
 この和睦の成立によって、掛川城は徳川家に引き渡されました。氏真は掛川城を出て、北条領へと亡命します。
 ここに、戦国大名今川家の命脈は尽きることとなったのです。

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天野純希

あまの・すみき●1979年名古屋生まれ。2007年「桃山ビート・トライブ」で第20回小説すばる新人賞を受賞。2013年『破天の剣』で第19回中山義秀文学賞を受賞後、精力的に作品を発表し続ける注目の若手歴史小説家。著書に『青嵐の譜』『南海の翼 長宗我部元親正伝』『戊辰繚乱』『北天に楽土あり 最上義光伝』『蝮の孫』『燕雀の夢』『信長嫌い』『有楽斎の戦』などがある。

そにしけんじ

そにし・けんじ●1969年北海道札幌市生まれ。筑波大学芸術専門学群視覚伝達デザインコース卒業。大学在学中に『週刊少年サンデー』(小学館)の漫画賞受賞を経て、『週刊少年サンデー』掲載の「流れ力士ジャコの海」で漫画家デビュー。著作に『猫ピッチャー』、『ねこねこ日本史』『ラガーにゃん』『ねこ戦 三国志にゃんこ』『猫ラーメン』など。

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