2020.4.12
結婚は罰ゲームなんですか?
子供に恵まれなかったアレ子の新婚生活
女子大を3月に卒業し、アレ子と夫はその年の秋に結婚式を挙げた。
夫は大蔵省、今の財務省に勤務していた。
静岡の両親は結婚を心から喜び、アレ子が大学4年間、
世話になった伯父の家族も涙を流してくれた。
アレ子は家族のためにも、東京のエリートと幸せな結婚をした
というゴールに、満足だった。
アレ子と夫は、官舎で新婚生活を始めたが、
そのとき初めてアレ子はエリート官僚であっても公務員は公務員、
「贅沢を言うことはできない」ことを知った。
身体が痒くなりそうな古い畳敷きの和室、
ちょろちょろとしか湯が出ない湯沸かし器、
真冬以外は常に見かけるゴキブリ、
「官舎なんてどこもこんなもん」
とほかの官僚の妻たちは言うが、
アレ子にはどうしても耐えられなかった。
それでも夫が早く帰ってくるなら気も紛れるが、
連日連夜、帰りは遅い。泊まりになることも少なくない。
退屈なテレビを見ながら、このボロボロの官舎で、
夫の事務次官レースの伴走者が自分の人生かと思うと、
アレ子は暗い気持ちになった。
夫もアレ子の不満はよくわかっていたようだったが、
「子供ができるまでは」
と言われた。
確かにアレ子も「子供ができれば」
退屈もしのげるような気がした。
同じ官舎の官僚の妻たちも、
子供が生活の張りになっている様子だ。
仕事で疲れている夫をアレ子なりに奮い立たせ、
アレ子も精一杯の健康管理をした。
しかし、どうも子供を授かる気配はなかった。
そうしているうちに、成城にいる夫の父親が急逝した。
その頃には日銀から別のところに天下りしていたが、
まだ50代だった。
それをきっかけに、アレ子と夫は、
成城の夫の実家で夫の母親、義母と同居することになった。
思いがけず官舎の暮らしから解放されることにホッとした。
同居して知った義母の秘密
同居して知ったことだが、
夫の実家の成城の家は義母の持ち家だった。
義母がもともと資産家の一人娘で、
義父は地方から苦学して出てきた東大生、日銀マンになったあと、
上司の手引きで婿養子に入ったとのことだった。
だからかアレ子の夫は一人息子だったが、
急逝した義父からの相続というのはほとんどないということだった。
アレ子は夫の母親とはウマが合った。
夫の母親は、アレ子と夫の間に、
なかなか子供を授からないことも何も言わなかったし、
何よりも夫がとてつもなく忙しく仕事をしているのだからと、
とにかく夫の健康や栄養のことだけを考えればいいと、
アレ子に言ってくれた。
アレ子は昼間はたいてい義母と一緒に過ごした。
二人でちょっとした食事や観劇に出かけることも、
家でのんびりテレビを見ることも、
義母と一緒にいることでアレ子は気楽だった。
二週間に一度くらい、義母の顧問税理士が
家にくるときは、アレ子も同席した。
義母は、都内にいくつかの不動産を所有し、
株の運用益もあるいわゆる資産家だった。
義母は隠すことなく、顧問税理士の話をアレ子に全て聞かせた。
義母は「私に何かあっても息子は、
忙しくて何もできないだろうから、
アレ子ちゃん、財産のことやってね」
と言ってくれていた。
そして義母は、資産の運用金から、
いくらかのお金をアレ子が自由に使える小遣いとするよう、
顧問税理士に言ってくれた。
義母の顧問税理士は、義母の遠縁の親戚だと言っていたが、
義母と顧問税理士は、男女の関係だったようだ。
二人の言葉の交わし方や、信頼し合う雰囲気に、
勘づかないほうがおかしかった。
アレ子もそれに気づいてからは、
仕事の話が終われば、何かしら用事を作って家を空け、
義母と顧問税理士が二人で過ごせるようにした。
初めて義母と会ったときの、
「自由恋愛でいいなぁ」という言葉が
そのときも思い出された。
アレ子の夫は相変わらず仕事が忙しく、
成城に引っ越してからは、ますます帰りが遅くなった。
省内に泊まっているのか、ホテルなのか、
帰らない日も多くなった。
アレ子はその頃になると、もう子供を授かることはあきらめた。
夫にとってアレ子は、
義母の話し相手であり母親の秘書程度なんだろうと、
そんな冷めたような気持ちになった。