2024.2.3
東京=味のスタンダード、は大いなる勘違い? 味覚の関西化について考える
日本の「おいしさ」の地域差に迫る短期集中連載。
初回は、好評発売中の新刊『異国の味』最終章にして特別編「東京エスニック」を特別公開いたします。
何事も“東京一極集中”と言われる昨今ですが、「おいしい」の平均値=東京の味なのでしょうか?
10年ほど前のある日、僕は東京の新橋にあるおでん屋さんにいました。案内されたカウンター席の目の前では、縦横に仕切られた大きなおでん鍋が、静かに湯気を立てていました。
そのおでん鍋の様子は、これまでも雑誌やグルメサイトなどの写真では散々目にしていました。つゆは真っ黒で、そこには見慣れたものから何だかよくわからないものまで、様々なおでん種が沈んでいます。ここは昔から「東京でおでんと言えばここ」と言われる老舗の名店です。
画像では見慣れていたはずですが、実際にそれを目の当たりにすると、改めて不思議な気持ちになりました。一体どんな味なんだろう。つゆの真っ黒な見た目は明らかに濃口醤油によるものでしょう。であればもしかして相当しょっぱいのだろうか。しかし名店として愛され続けている以上、しょっぱすぎておいしくないなんてことはないはずだ。よく見ると不思議な物体が沈んでいる。これが噂に聞く「ちくわぶ」というものか……。
頭の中は目の前のおでんのことでいっぱいでしたが、とりあえず、はやる気持ちをなだめるかのごとく、ビールと共に「まぐろのぬた」と「茄子しぎ焼き」をオーダーしました。ちなみにまぐろのぬたはかつて東京で初めて知った食べ物です。茄子は、いかにも東京、という感じの潔い醤油味でした。どちらもたいへんおいしかったので、おでんへの期待はますます高まります。
つまみを食べ終え、ビールのおかわりと共に、ついにおでんをオーダーしました。豆腐、玉子、蒟蒻。それが僕にとっての「おでんの定番」だったのと、この店は豆腐が名物とも聞いていたからです。
種に手をつける前に、まずはつゆをひとすすり。今まで食べたどんなおでんにも似ていない味でした。しかし同時にそれは、地域的な好みの差を越えて全日本人のDNAに訴えかけてくるような、極めて説得力のある「おいしい汁」でした。見た目に反して、決して醤油からいわけではありませんでした。かと言ってすき焼きのように甘ったるいわけでもありません。ダシのうま味が思った以上にしっかり効いているがゆえのまろやかさ、といったところでしょう。そして一番驚いたのは、そのダシに昆布がはっきりと感じられたことです。蕎麦屋さんなどの東京のダシにおいて、昆布は使われたとしても隠し味程度です。しかしこのおでんつゆは、そういうものとも明らかに違いました。
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分析はそのくらいにして、いよいよ本腰を入れて食べ始めます。箸で豆腐を割ると、その断面は真っ黒のつゆがしっかり染みた表面からほんのり白を残した中心部まで、実に美しいグラデーションを描いていました。それを口中に放り込むと、なるほど名物とされるだけあって、感動的なおいしさです。濃いけれど決して押し付けがましくはないつゆの味わいが、豆腐の滋味を覆い隠すことなくじんわりと引き立てています。こんなおでんは初めてですが、こんな豆腐料理も初めてです。東京のおでん、恐るべし。僕は夢中で最初の一皿を食べ終えました。この日はその後、結び昆布、湯葉、ちくわぶ、ずいきなどをいただき、最後の一皿ではもう一度、豆腐をいただきました。ちなみにそこに大根と練り物が入らないのは、あくまで個人的な「おでんの流儀」です。もちろん、この黒いつゆが染みに染みた大根は、豆腐を凌ぐこの店の人気メニューだそうです。
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