2022.7.16
【中村憲剛×尾形貴弘対談 前編】最低の先輩だったパンサー尾形が「頑張ることこそカッコいい」と思えるようになった理由
「頑張るのはダサい!」「まわりが悪い!」からドロップアウトした
中村
尾形さんは全然練習に来なかったけど、ほかの4年生の先輩からは聞いてたんですよ。僕らが入る前はサッカーを真剣にやっていたのに、途中からやらなくなってしまったと。
尾形
1、2年生のころはマジでやってたのよ。セレッソ大阪のサテライトと練習試合やったこともあったな。1つ年上の西澤(明訓)さんが出ていてマッチアップして。
中村
尾形さんのその時のポジションはセンターバックですか?
尾形
そう、ボランチと両方やってたからね。でも西澤さんは本当に衝撃的だったよ。ヘディングで競り合う高さのロングボールが来たわけ。そうしたら、あの人のジャンプが高すぎて、俺がヘディングするボールを胸でトラップしてシュートをバーン!だからね。俺の目線の上に西澤さんのスパイクがあったから。
中村
スパイクはさすがに言い過ぎでしょう(笑)。
尾形
いやいや、ほんとそれくらい。プロになるのはこんなすげえヤツなんだって。
中村
そのころはと言うとあれですが……、真剣にサッカーをやってたんですね。
尾形
大学2年くらいまではね。宮城から上京して段々遊びを覚えて、朝に帰ってきてちょっと寝てから練習に行くわけだから、まわりとどんどん差がついてしまうようになって。それを、俺は人のせい、環境のせいにしちゃってたわけよ。監督は全然俺のいいことわかってねえ、みたいに。高校までサッカーで挫折したことなんてなかったから、「頑張るのなんてダサい」って思ってた。恥ずかしい、頑張る姿なんて出したくないって。
中村
僕が入った頃の尾形さんには覇気がもうなかったです。
尾形
心の底では、サッカーをやりたいのよ。でも頑張る姿を出すのがどうしてもダメで。まわりにもそういうヤツ、いっぱいいて。満たされなくて、なんて言うかな、生きている感じがしなかった。
中村
僕は大学を卒業してからの尾形さんの消息がまったくわからなくて。たぶんあの学生生活のままだと、就職も難しかっただろうなって思っていました。お笑いの世界に入るまではどうだったんですか?
尾形
宮城に戻ってサッカーチームのある企業に就職して、一応ボールは蹴っていたんだけど、1年半くらいで辞めちゃって。
中村
そうだったんですね。そこからNSC(吉本総合芸能学院)に?
尾形
そう、東京校に。
中村
お会いしたらずっと聞きたかったんですけど、どうしてお笑いの道を選んだんですか?
尾形
それこそさっき話した立ち風呂よ。レスリング、ボクシング、相撲とかのヤツらと「おもしろ風呂入り選手権」みたいなのをやって、俺、そこで優勝しちゃって。ケロリン桶に乗って石鹸ですべらせて、壁に一回転してぶつかって肛門を見せながら落ちるっていう技をやったら、それで大爆笑! これ、メチャメチャ気持ちいいなって。
中村
なんですか、そのおもしろエピソードは(苦笑)。初めて聞きましたよ。それは何年生のころですか?
尾形
大学2年だったかなあ。まだ腐る前のころ。その気持ちが残っていたのか、サッカーダメなら、お笑いやろうってふと思ったんだよね。NSCに入って最初はコンビ、その後はピン芸人やって。本当にお金もないし、大変だった。バイトしかしてなかった時期もあったから。
中村
そうだったんですね……。そこからここまで頑張って来られたんですね。
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