よみタイ

着物の手入れとセルフレジへの当惑

 ずいぶん前の冬、着物で会食をした際、ある人が遅刻をした。遠方から来るし、いつも着物を着ているわけではない。それは時間がかかるだろうと待っていたら、汗をかきながら無事に到着したのはいいが、ずっと衿元を手で隠している。どうしたのかと聞いたら、「朝、襦袢を出してみたら、衿が汚れていた」という。正絹の襦袢は、着用したまま、手入れをせずに何年も放置していると、目に見えなかった汗や汚れがしみついてしまい、そのようなことが起こる。
 あせった彼女は、半衿を取り替えなくちゃと思ったのはいいが、半衿がどういうしくみでついているかを知らずに、襦袢の地衿ごとはさみで切り取ってしまった。それに気づいた同居しているお母さんが、ものすごく怒りながらも、得意な洋裁の腕を活かし、洋裁用の綿の芯地を使って、とりあえずミシンで、かわりになるものをくっつけてくれた。そしてそこに半衿をつけてきたというのだった。付け焼き刃なので、衿元は波打ってはいたが、見えているのは二センチほどなので、
「気にする必要はないわよ。首にマフラーが巻ける季節で、本当によかったね」
 とみんなで慰めて食事をして散会したのだった。
 半衿をつけるときに、いつもこのことを思い出す。半衿を替えるのに、いきなり襦袢の地衿ごと切っちゃうのもすごいが、それをものすごい勢いで直したお母さんの洋裁の技術もすごい。着物というものが日常から離れてしまうと、想像もできない様々な出来事が起こるのが面白い。日常的に慣れていないために、トラブルが起こったときに、どうしていいのかわからなくなるのだろう。
 私は着物が好きなので、本を読んだり、自分で着たりして、和装に関してはある程度のことはわかっているつもりだが、彼女にとっては、着物は非日常のものである。慣れている分野の事柄だから、慣れていない人に対して、なんでそんなことをするのかといえるけれど、たまたま私が知っていただけで、彼女がそれを知らなかったからといって、見下すようなことでもない。私が知らない分野の事柄を、彼女はたくさん知っているはずなのだ。

1 2 3 4

[1日5分で、明日は変わる]よみタイ公式アカウント

  • よみタイ公式Twitterアカウント
  • よみタイ公式Facebookアカウント

関連記事

群ようこ

むれ・ようこ●1954年東京都生まれ。日本大学藝術学部卒業。広告会社などを経て、78年「本の雑誌社」入社。84年にエッセイ『午前零時の玄米パン』で作家としてデビューし、同年に専業作家となる。小説に『無印結婚物語』などの<無印>シリーズ、『散歩するネコ れんげ荘物語』『今日はいい天気ですね。れんげ荘物語』などの<れんげ荘>シリーズ、『今日もお疲れさま パンとスープとネコ日和』などの<パンとスープとネコ日和>シリーズの他、『かもめ食堂』『また明日』、エッセイに『ゆるい生活』『欲と収納』『よれよれ肉体百科』『還暦着物日記』『この先には、何がある?』『じじばばのるつぼ』『きものが着たい』『たべる生活』『これで暮らす』『小福ときどき災難』『今日は、これをしました』『スマホになじんでおりません』『たりる生活』『老いとお金』、評伝に『贅沢貧乏のマリア』『妖精と妖怪のあいだ 評伝・平林たい子』など著書多数。

週間ランキング 今読まれているホットな記事