2023.10.26
モデルの名前が失われても残るもの 第11回 カンヴァスをはさんで画家が対話する肖像
ラファエル前派の画家、ダンテ・ガブリエル・ロセッティもまた、彼の妻を神話や伝説の女性に見立てて、そのイメージの中で結晶化させていた。それが最も顕著なのは、妻エリザベス・シダルの死後、その死を悼んで描かれた〈ベアタ・ベアトリクス(「祝福されたベアトリーチェ」の意)〉(一八六四―七〇年)である。この作品は、詩人ダンテ・アリギエーリの永遠の想い人、ベアトリーチェ・ポルティナーリが死を迎える瞬間を象徴的に表したもので、ロセッティが好んで描き続けたテーマに連なるものでもあった。
黄昏時を思わせる物憂い金の光と影の中、目を閉じて座る女性がいる。逆光を受けて、彼女の赤みがかった髪や膝の上に置かれた手の輪郭がけむるように光る。その顔は恍惚とした表情を漂わせつつも、深い眠りを思わせる静けさにも満ちているようだ。白い服に緑の上衣という古風な装いをするこの女性こそ、ダンテが自らのミューズと定め、『新生』(一二九三年)や『神曲』(一三二一年)で謳ったベアトリーチェなのだ。背後にはフィレンツェの通りが延び、そこに朧な人影が二つ見える。画面右の赤い帽子を被るのが、詩人ダンテである(1)。彼は反対側に佇む赤く燃えるような色合いをまとう人物を見つめている(2)。視線の先にいるのは愛の寓意的存在であり、天上世界に属する者なのだ(2)。左手で命の炎を掲げ、まさに詩人ダンテが愛する女性の魂を天に導こうとしているのかもしれない。それを暗示するかのように、日時計の影は彼女が息を引き取ったとされる時刻を指し示す(3)。詩人たちの奥に見えるのがヴェッキオ橋であり、此岸と彼岸、つまり地上と天を繋ぐものとされている(4)。
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ロセッティはこの作品以外でも、幾度となくダンテとその想い人を絵の中で扱ってきた。そして、彼の描くベアトリーチェ像のほとんどに、妻エリザベス・シダルの面影が見られる。同じくベアトリーチェの死を象徴する未完の油彩画〈ダンテの愛〉(一八六〇年)においても、三日月のもとに描かれた詩人の恋人の顔立ちは、シダルのものとなっている。ダンテがベアトリーチェを詩作の霊感の源とみなしたように、ロセッティもまたエリザベス・シダルを自らのミューズと定め、作品のモデルとしてきた。『新生』を英語に翻訳するなど、彼は己の名前の一部でもあるダンテを敬愛し自らを投影したように、ベアトリーチェとシダルを同一視してきたのである。つまり、一連のダンテとベアトリーチェの作品はロセッティとシダルの見立て肖像画としても見ることができるのだ。
そのために、〈ベアタ・ベアトリクス〉は最後のエリザベス・シダルの肖像画とも位置付けられるだろう。一八六二年、シダルは阿片チンキの過剰摂取がもとで亡くなったが、この絵のベアトリーチェ像は、それまでロセッティが描きためた素描から作り上げられた。それを示すかのように、シダルの死を象徴するもの、光輪のある赤い鳩とそれが咥える白い花が絵の中に描き込まれている(5)。赤という色は愛を意味するが、光輪は天上世界に繋がるものだ。そして、白い花は罌粟であり、シダルの死因となった阿片チンキを暗示する。この鳩は死の使いとして、ベアトリーチェである画家の妻を訪れたのである。
ロセッティは、神話や文学の美しい女性たちや神秘的な寓意像の姿でシダルを描き続けてきた。蠱惑的で謎めいた女性という印象は褪せることなく輝き続けるが、同時に彼女は常に絵画という舞台で何かを演じきらなくてはならない。さらに、ミューズという役割を与えられた以上、永遠に画家の理想とする姿で留まるよう求められたのだろうか。シダルの顔立ちを借りた無数の女性像の中にあって、彼女自身の肖像は失われてしまった気もするのだ。
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