2023.10.26
モデルの名前が失われても残るもの 第11回 カンヴァスをはさんで画家が対話する肖像
オランダ黄金時代の巨匠レンブラント・ファン・レインは、モデルの外観と内面を共につかみ取り、彼らに流れる時間までも捉えた肖像画を数多く制作した画家である。その中に、妻サスキア・ファン・アイレンビュルフを描いた作品があるが、大半が見立て肖像画のスタイルをとっている。レンブラントと彼女が結婚した一六三四年作の〈フローラに扮したサスキア〉には、ローマ神話の春の女神フローラ姿の妻が佇んでいる。
マントのついた暗い緑の装いに身を包み、当時二十二歳のサスキアは横向きに立ち、顔だけを鑑賞者の方に向けている。眼は無邪気に見開かれ、柔らかな肌には赤みが差し、唇は優しく弧を描き、栗色の豊かな髪を肩と背に垂らしている。胸元を飾る交差したショールと耳元には涙滴型の真珠が小さく光り、頭に戴くのは花と葉をふんだんにあしらった冠である。その中の一つ、耳元に垂れた赤みがかった花は、オランダを象徴するチューリップである。同じく花の女神を象徴するかのように、花と緑で飾られた杖をその右手が握る。画家の妻を照らす光のおかげで背景もまた仄かに明るみ、暗い森を思わせる草木がひっそり浮かび上がっている。
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春と花の女神フローラは、十六世紀イタリアで高級娼婦、もしくは花嫁の扮装肖像画の題材として頻繁に取り上げられていた。ルクレツィア・ボルジアを描いたとも言われるバルトロメオ・ヴェネトの〈女性の肖像〉(一五二〇―二五年)のように、胸を半ばはだけ手に花束を持つ理想的な女性像として表されることが多い。レンブラントもまた、他にもフローラ姿のサスキアの肖像画を数点制作している。その一つ〈赤い花のサスキア〉(一六四一年)で堂々と落ち着いた物腰を見せるのとは対照的に、結婚したばかりの頃を描いた〈フローラに扮したサスキア〉では、どこか気恥ずかしげに笑みを小さく浮かべ、その眼差しはレンブラントや観る者の方に真っ直ぐ向けられておらず、内に籠っているかのように見える。フローラ姿の彼女は、ひとつの理想的な美の姿に留まることはない。季節が移ろい、植物が成長し変化を遂げるように、彼女も女神の見立て肖像画の中でさまざまな表情を見せ変わってゆく。時間の流れと共に移りゆくその姿こそ、フローラという装いの向こうからあふれ出る一人の女性の人間的な美なのだろう。
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