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鏡が浮き彫りにするのは、目に見えない真実か、仮初の現実か 第10回 画家の目としての鏡の役割

 鏡は逆しまの世界を映す。そして、鏡像は単に現実を反転したものではなく、私たちの目が捉え損ねた何かであったりする。絵画内に置かれた鏡は、画家の目そのものなのだ。その眼差しのもと、絵画空間の外にある世界を暗示し、人物の奥深い感情を汲み取ってみせる。 
 モノクロームの鏡像写真の印象は思いのほか強く、それからも私の中に留まり続けた。合わせ鏡によってイメージが増幅するように、しばらくは鏡を見る度に静止像がないかと探すことを繰り返していた。「逆さまゲーム」の読み合わせが終わりに近くなる頃、ベルンハルトは読書会に姿をみせなくなった。ハンナや他の参加者にも尋ねてみたが、誰もその理由を知らず、彼の不在をさほど気に留める様子もなかった。そして、回を重ねるごとに参加者は少しずつ減り、私も次第に足が遠のいていった。

 しかし、一昨年ゲッティンゲンを訪ね、友人の誕生日の祝いに顔を出したところ、ベルンハルトの知人だという人と話をする機会があった。マチアスという名のその人は、同じ数学科の研究室の同期だった、と自己紹介する。ベルンハルトについて訊くと、二年前まではケルンで働いていたが、その後は連絡が取れなくなったとのことだった。だから、今はどこにいるのか分からない。人と距離を置きたがる性格だから、少しでも離れるきっかけを見つけると、これ幸いとすぐに姿を消してしまう。そう少しばかり苦そうに語る人に、重ねてベルンハルトの弟であるディーターについても尋ねてみた。双子の弟?とマチアスは眉を顰める。彼に兄弟姉妹はいないはずだよ。それに、と彼は続ける。ディーターは彼のミドルネームなのだから。呆気にとられた私にじわじわと言葉が染み込むうちに、記憶の中で喫茶店の場面が不意に色褪せてしまう。そこからまずモノクロームの鏡像写真が消え、次いでそれを差し出すベルンハルトの姿も曖昧に崩れていった。彼の輪郭は何重にもぶれたまま重なり、架空の双子の存在をちらつかせる。B(ベルンハルト)から半円が一つ消えてD(ディーター)となっても、同一人物であるはずの彼から分身の存在は薄れることはない。写真を鏡枠に嵌めて、鏡像を固定しようとするように、ベルンハルトは自分の中の他者を留めようとしていたのだろうか。ワイエスが目にした幽霊のように、私の中のベルンハルトの肖像、もしくは鏡像から顔が抜け落ちたまま戻ることはない。

引用文献
『逆さまゲーム』(アントニオ・タブッキ著/須賀敦子訳 白水社Uブックス 1998年)

編集協力/中嶋美保・露木彩

次回は10月26日(木)公開予定です。
※9月は休載となります。

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石沢麻依

1980年、宮城県仙台市生まれ。東北大学文学部で心理学を学び、同大学院文学研究科で西洋美術史を専攻、修士課程を修了。2017年からドイツのハイデルベルク大学の大学院の博士課程においてルネサンス美術を専攻している。
2021年「貝に続く場所にて」で第64回群像新人文学賞、第165回芥川賞を受賞。
著書に『貝に続く場所にて』『月の三相』がある。

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