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鏡が浮き彫りにするのは、目に見えない真実か、仮初の現実か 第10回 画家の目としての鏡の役割

 イタリアのマニエリスムの画家パルミジャニーノの〈凸面鏡の自画像〉(一五二三―二四年頃)は、まさにその一例だろう。画家としての技量を知らしめる自己紹介的な作品であるこの絵は、実際に教皇クレメンス七世に献呈され、その才能を認められたと言われている。凸面鏡に映る歪んださまや曲線を表すべく、実際に円形の凸面板にこの自画像は描かれた。鏡には、窓のある部屋と若い画家の姿が映し出されている。毛皮の外衣を身にまとい、襞のある白いシャツを襟元と袖口に覗かせ、小指に指輪をはめた画家は、制作当時まだ二十一歳という若さであった。画面左上に位置する湾曲した窓が光源となり、部屋や画家の顔が明るく照らされている。背景の部屋と同じく、前景に置かれた手もまた大きく伸び、強調されるような描き方がなされている。それに対し、画家の顔は歪み一つなく端整だ。ここから、二種類の鏡像の使用が指摘されてきた。パルミジャニーノは、普通の平面鏡に映る顔と、凸面鏡に映る室内空間と手の両方を画面に取り込んだのである。当時の絵画において、歪みは美の規範に反するが、それを踏まえた上で描かれたこの作品は非常に斬新なものであった。さらに、凸面鏡に映る手を右手と見るか左手と見るか、二つの説がある。鏡を見ながら描いたものならば、画像が左右反転するので左手であるはずだ。一方で、指輪をはめた美しく優雅な手が、画家の自意識を表すものならば、絵筆を握る右手と考えられる。どちらにしろ、平面鏡と凸面鏡の鏡像であるこの絵は、存在しない鏡に映る姿を描いたものだと言えるかもしれない。

パルミジャニーノ 〈凸面鏡の自画像〉1524年頃 オーストリア、ウィーン[美術史美術館]
パルミジャニーノ 〈凸面鏡の自画像〉1524年頃 オーストリア、ウィーン[美術史美術館]

 パルミジャニーノが画家としての自己を、鏡像という形で最も効果的に表したのとは対照的に、自分を見知らぬ他者と描いたのがアンドリュー・ワイエスの〈幽霊(自画像)〉(一九四九年)である。白く淡い光と影に満ちた部屋に、白いシャツとズボンを身にまとう男性の姿がある。窓の日よけはぼろぼろに破れ、壁にも大きくひびが走り、部屋は荒廃した様子を見せる。男性の顔は影に柔らかく包まれているため、目鼻立ちが半ば消えてしまっている。その輪郭も色彩も淡いことから、彼の存在感はどこか希薄なものと感じられる。

アンドリュー・ワイエス 〈幽霊(自画像)〉1952年、アメリカ、ワシントンⅮ.C.[スミソニアン博物館] (The Revenant (Self-Portrait))© 2023 Wyeth Foundation for American Arth/ ARS,  NY/ JASPAR,  Tokyo E5346
アンドリュー・ワイエス 〈幽霊(自画像)〉1952年、アメリカ、ワシントンⅮ.C.[スミソニアン博物館] (The Revenant (Self-Portrait))© 2023 Wyeth Foundation for American Arth/ ARS, NY/ JASPAR, Tokyo E5346

 この作品は、オルソンハウスの一室を舞台に、鏡に映った自分の姿を一瞬捉えたものだという画家自身の言葉がある。オルソン姉弟と彼らの家、それを取り巻く環境は、長年ワイエスの作品の主題となっていた。ある日、長く閉めきられていた部屋の扉を開けた時、画家はそこにぼんやりと曖昧な姿の人影を目にしたという。咄嗟に幽霊だと驚くものの、すぐに埃に汚れた鏡に映るワイエス自身の姿だと気づいたそうだ。自分を幽霊と見間違えたこの出来事は、水彩絵の具による習作とテンペラの本作の二段階で描かれることになった。習作では、男性は青みがかった色合いの上着をまとっている。テンペラ画に仕上げる際に色彩は抜け落ちて、部屋と同様に白に包まれることになった。その変更によって、画家の鏡像は圧倒的な他者性を醸し出すことになる。ワイエスは自画像としているものの、これほど自己から距離を置いた姿も珍しいのではないだろうか。むしろここに描かれているのは、鏡像が得体のしれないものとなった一瞬とその感覚であり、閉ざされた部屋と一体化した姿だったのだ。つまり、画家は焦点を自分ではなく室内の方に置いたと言えるかもしれない。鏡像との遭遇は古い時間との対面であり、鏡の中の顔を占めるのは家の表情なのだろう。

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石沢麻依

1980年、宮城県仙台市生まれ。東北大学文学部で心理学を学び、同大学院文学研究科で西洋美術史を専攻、修士課程を修了。2017年からドイツのハイデルベルク大学の大学院の博士課程においてルネサンス美術を専攻している。
2021年「貝に続く場所にて」で第64回群像新人文学賞、第165回芥川賞を受賞。
著書に『貝に続く場所にて』『月の三相』がある。

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